ChatGPTに脅威を感じる前に、自分はちゃんと「人間」をやっているかを振り返ろう【仲正昌樹】
「AI以下」の人間とは? 「人間」らしく判断する能力とは?
■現時点で「AI」と「人間」の大きな違いとは何か?
哲学的な話になるが、ChatGPTが「人間」を越えているかどうかという問いに答えるには、まず、「人間」とは何かをはっきりさせる必要がある。言語・応答能力の話をしているのだから、生物学的な意味で「ヒト」であるかどうかは関係ない。ChatGPTの性能を基準に考えれば、他人からの問いかけに対して、その意味を理解し、相手が自然と理解できる文で答える、ということになるだろう。
前々回の記事で述べたように、ChatGPTは、インターネット上のビッグデータから、どういう「問い」に対して、どういう「答え」を返すことが普通なのか、「人間」の標準値をその都度算出する。したがって、ビッグデータに適当なサンプルがなかったら、まともな「答え」を出せない。私たち人間がそのテーマについて、デタラメな書き込みばかりしていたら、ChatGPTもデタラメな“答え”しか生成できない。
それに対して、「人間」はネット検索して情報収集するにしても、ビッグデータ上の関連データ全てを数秒でチェックすることなどできないし、見つけた文章を瞬時に比較して、標準解答を導き出すことなどできない。ChatGPTに比べると、かなり限定された情報収集・処理しかできない。その代わり、自分の経験や身体感覚を動員して、サンプルの候補になりそうな文について、それがありそうな話か、自分と同じ言語を話す人間の口から出そうな文章か、体感的に判断する。なので、多少の不正確さがあっても、「人間」同士で理解し合うことが通常は可能である。
ハイデガー研究者としても知られる哲学者のヒューバート・ドレイファス(一九一九-二〇一七)は、人間は身体的な経験に基づいて、少ない情報から適切にリアクションを見出すので、AIとは異なることを指摘している。本当に「シンギュラリティ」が到来し、AIが、外付けの「身体」か「ヴァーチャル身体」で、快楽や苦痛を伴った経験をするようになれば話は別だが、今のところ、AIには「身体」がないので、自分自身の“経験”に基づいて、「こんなことはあり得ない」、と判定することはない。それが現時点での、AIと「人間」の違いである。
しかし、ドレイファスも指摘しているように、インターネットが日常に普及し、実地体験が必要なはずの教育、伝達の場面でも、ネット中継が当たり前になると、身体性に根ざした「人間」固有の経験が希薄になっていくのは避けられない。コロナ禍の影響で、リモートがデフォルトになりつつあることで、ドレイファスの懸念に該当しそうな話をよく聞くようになった。