ChatGPTに脅威を感じる前に、自分はちゃんと「人間」をやっているかを振り返ろう【仲正昌樹】
「AI以下」の人間とは? 「人間」らしく判断する能力とは?
■「人間」らしさを失った「AI以下」の人間とは?
ネットだけが悪いのではない。大学教員など、知的職業に従事している人は、定年で最先端から遠ざかり、その分野の専門家たちと知的に充実した会話をするということがないと、あっと言う間に、専門的な議論を適切な言葉で展開する能力を失い、話がやたらと飛躍するようになる。
私が見たところ、大学の名誉教授は、八〇歳をちゃんと超えられるかが、一つのポイントになるように思える。ちゃんと超えられているように見える人ももちろんいるが、かつてのようにうまく議論を構築できなくなっているのに、たまに学会や研究会に出てきて、偉そうに振る舞おうとすると、老害化する。若い人、四十代くらいでも、研究・教育から遠ざかり、同じ専門の同僚と話をするということをしなくなると、急速に非「人間」化することがある。
どういう分野での活動であれ、身体を介した他者経験が絶えず補給されないと、「人間」らしいコミュニケーションをする能力を維持するのは困難なのではないかと思う。インターネットは、三十年くらい前に普及し始めた当初は、対人コミュニケーションが苦手で、引きこもりがちの人たちが、部分的にでも「人間」化するのに有効なツールだとされていた。
確かに、インターネットを通じて、辛うじて他人と言葉を交わすことができるようになり、その人たちとリアルでも会って、一緒に何かを成し遂げることができるようになる人もいるが、逆効果になっている人たちが目立つ。「動物化」がどんどん進み、何の意味があるのか自分でもよく分かっていない言葉の羅列に反応し、イイネしたり、リツイートしたりし続けることで、社会的なコミュニケーションに参加しているつもりになっているのは、末期的である。
一日中、意味不明の文章を投稿して、リアクションがあるごとに一喜一憂しているような“人間”は、比較するまでもなく、AI以下であり、「人間」らしさを失っている。AIの文章生成能力の向上を恐れる前に、どういうことができるのを、私たちが「人間」的と見なすのか、ちゃんと考える必要がある。
例えば、約束に遅れそうな時、全力で走るべきか。走って、関係のない人にぶつかる確率や自分が転んで怪我をする確率と、〇〇分の遅れが出て、相手にかけるかもしれない迷惑の間でどうバランスを取るか、といった問題。あるいは、何人かで協働作業をしていて、ある人の態度が急にヘンになり、作業に遅延が生じたり、頓挫しそうな気がしたりする時、他のメンバーにそれをどのようなタイミングで告げるのか、それとも、黙っておくべきか。
こうした判断に至る思考の過程を、疑問の余地がないように合理的に定式化するのは困難だが、身体的・対人的な経験を媒介にすることで、各人は自分なりに筋の通った答えを出している。
そういう「人間」らしさの本質を不問に付したまま、「このままAIが進化し続ければ、やがて我々は、◇◇されることになる」式の物言いをするのは、あまりにも空しい。そんなのは、ChatGPTがなくても、簡単にコピペできてしまう、ネットの定型文だ。
文:仲正昌樹