元AKB・岡田奈々の体重公開騒動に見る「痩せ姫」の恍惚と不安【宝泉薫】
体重公開はやはり、痩せ姫にとって何よりの存在証明。達成感やマウンティング欲求も満たされるが、それ以上に心の痛みを表現できる手段なのだ。
とはいえ、岡田への風当たりの強さが示すように、その表現がどれくらい伝わっているかは覚束ない。多くの人にとって、痩せ姫の葛藤は他人事だからだ。
筆者は最近、別の経験を通して、それを再認識した。「週刊女性」において、昨年11月から半年間、月イチ連載をした「やせたがる女たち~美と食とストレスと~」のことである。初回は「ダイエットの歴史」について、以下「痩せの大食い」「言ってはいけないNGワード」「受験・留学といったデビューの落とし穴」「激辛信仰」「母と娘にできること」といったテーマを取り上げてみた。
が、筆者のブログ「痩せ姫の光と影」や2016年に出した『痩せ姫 生きづらさの果てに』(ベストセラーズ)を知る人が読んだら、テイストの違いを感じたかもしれない。
じつはこの連載をやるにあたって、方向性を少し変更。同誌では以前、痩せ姫の生き方を正面から肯定するようなものも二度書いたが、これだと刺激が強すぎるというか、当事者以外が圧倒的に多い読者層には伝わりにくいと思ったからだ。
また、同誌で芸能関係のコラムを毎週連載していることもあって、名義も本名の「加藤秀樹」を使用。この名義で1994年に出した『ドキュメント摂食障害』(時事通信社)のような、客観的なスタンスを心がけた。
それがどこまで奏功したかはともかく、気持ちとしては楽だった。痩せ姫という、その生き方がよしとされにくいものを全肯定するより、あくまで回復すること、健康であることをよしとする前提で書いたほうが、自分にとってはパワーを使わずに済むのだ。
おそらく、治療的な立場の人はこれに近い感じでやっているのだろう。そうでなくては、仕事として何十年も続けられないはずだ。
ただ、楽に感じた反面、痩せ姫本人にとっては物足りない内容なのではとも思った。さまざまな局面で他者から否定され、自己否定もしがちな彼女たちは、食べ物よりも「肯定」というものに飢えている。
それゆえ、海外では摂食障害を病気としてとらえず、生き方として肯定していこうとする「プロアナ」という思想も生まれた。筆者が作り、世に送り出した「痩せ姫」という概念もまた、プロアナの流れを汲むものだ。
とはいえ、プロアナも痩せ姫も一般的には受け容れられにくい。いや、世の中の健全さが保たれるためには、肯定できない人が多数派でも構わないのだが、少数派の居場所、その拠りどころとしての意義はもうちょっと認められてよいのではとも感じる。