「自分の子育ては間違っていないかどうか」を気にしてばかりいる親たち【西岡正樹】
「子どもを育てる」を再考する
◾️スポコン家族だった弟夫婦の子育ての話
私の弟家族は、いわゆるスポコン家族で、子どもは男児3人女児1人の4人だ。それぞれ野球とバスケットを幼少の頃からやっていた。子どもたちの生活ベースは、「それぞれの競技で十分な力を身につけ、全国大会に出るために日常的に何をするか」にあったと言っても過言ではない。もう少し分かりやすく言えば、息子たち3人は「目指せ、甲子園」であり、娘はバスケット選手として「全国大会へ行くこと」を目標にしていた。
しかし、私の弟は、自分の信念として、自分の体験(元高校球児であった)から、また少しの経済的な理由から、息子たち3人には公立高校から甲子園を目指すことを求めていた。息子たちは3人ともに私立の高校から誘いがくるほどの選手だったにもかかわらず、弟は、その誘いをすべてお断りしたくらいの強い思いがあった。どこの高校に行くか、最終的に本人たちが決めたが、親として「公立高校から目指す」は譲れなかったようなのだ。
娘は、小学校から他県のミニバスチームに入り、全国大会まで進んだ。その勢いのまま中学も他県の学校へ、そして、高校からは県内のバスケットボールの私立強豪校へ進んだ。娘だけは公立にこだわらなかったのは、娘自身の強い意志を尊重したからだそうだ。それを可能にしたのは、どのような状況になっても、娘がやると決めたらそれを全面的に支える覚悟を持った義妹(バレーボール選手)の存在があったからだ。
明確な目標を持った子どもたちのサポートを、弟夫婦は惜しまなかったが、時には厳しく、時には諭し、また、時には懐に抱え、時には突き放しながら、子どもたちを育てた。弟は、息子たちのためにバッティングゲージを作り、野球に一区切りつくまで十数年の間、多忙の中でも毎日の素振りとバッティングに付き合った。義妹は、10年以上もの間、朝早い弁当作りから娘の朝晩の送り迎えを一日も欠かすことなく担った。そして、念願が叶い、4人ともにそれぞれの競技で全国へ道が繋がるような高校へ進学したのだった。両親の体を張ったサポートはそれ以後も変わらなかった。
しかし、何事も順風満帆な訳はない。どの競技も積み重ねてやればやるほど、レベルが上がれば上がるほどスランプもあり、怪我をすることも多くなる。そんな中で、子どもたちは、ストレスが溜まってくると学校に呼び出されるようなことをしでかすこともあった。親が出向くなんてことも何度かあった。そんな時も、弟夫婦は自分の子どもだけではなく、しでかした子どもたちを家に集めて、時には激しく指導した。
息子たち3人は、県内の野球強豪校で3年間頑張ったが、3人ともに、甲子園出場の夢は叶えられなかった。それぞれに県大会の決勝、準決勝まで進んだが、敗退した。また、娘のほうは小学校のミニバスケットからさらに中高と県外県内の強豪校で10年間バスケットボールに夢中になり頑張り続けた。しかし、中学、高校での全国大会出場は叶わなかった。
外から見ている私は、4人が野球やバスケットボール中心の生活をしていたから、部活を辞めたらどうなるんだろうと心配していた。ところが、高校卒業後の子どもたちは、飄々と自分の進む道を見つけ進んでいったのだ。それを私は、少しの驚きを持って見ていた。また、あれだけサポートしていたにもかかわらず、子どもたちがすんなりとスポーツから離れたことを、弟夫婦はそれを当然のように受け止めていた。子どもたちと一緒に夢を叶えられなかったが、「それまでの過程で育んだものは消えることはない」という確かなものを感じ取っていたのかもしれない。
振り返れば、弟夫婦の子育ては、事あるごとに口出しをするが、委ねるところは子どもたちに委ねていた。そして、委ねたら口出しをしない。「我々はここまで精いっぱいサポートするけど、ここからは自分のことは自分でやるんだよ」という明確な線引きがあり、それを日々の生活の中で二人は示していったのだ。(それは私と弟の父母の姿勢でもあった)