「眠気の解消」「集中力の持続」「課題の処理速度」を求める人たちの罠【大竹稽】
大竹稽「脱力の哲学」1
■集中力が途切れブレることは悪いこと?
ここから先は、読み飛ばしていいでしょう。哲学好きはご同行願います。
フランスの哲学者メルロ=ポンティは、「身体と世界の関わり」について教えてくれます。『知覚の現象学』で彼はこんなことを言っています。
「わたしが身体を持っており、その身体を通じて世界の中で行動している限り、空間と時間とは、わたしにとって並列された点の総計ではない。わたしは空間と時間の中に存在しているのではないし、空間と時間を思惟の対象としているのでもない。わたしの身体は空間と世界を包摂している」
時間は止まりません。流れています。しかし、なぜ「流れている」とわかるのでしょう? 大事なのは「時間に触れている人がいる」ということです。常に時間には、「触れる人にとって」という前提があります。ですから、「川の流れの」に喩えられるように、時間は一定でも一律でもありません。
空間も、同じように変化しています。デスクの上の物が動かないように見えても、実は動いています。音も空気も、時事刻々変化しています。
わたしたちの時間は、打刻された点が直線的に並んでいるわけではありません。人それぞれによって、感じ方は千差万別。同じ人間にとっても、時間は千変万化します。だから、この変化を拒絶するような集中は、身体本来のあり方をごまかすものなのです。
つまり、集中がブレたり揺らいだりするほうが、自然で健やかなのです。
世界と触れ合っているのですから。今、あなたの手は何に触れていますか? どんな感じがしますか? 手に馴染んでいますか? あるいは違和感? それとも親しみでしょうか?
『哲学者とその影』から引用します。
「もしわたしが他人の手を握りながら彼がそこにいることについての明証を持つのであれば、それは他人の手がわたしの手と入れかわるからである。わたしの手が『共に現前』し『共存』しているのは、それが一つの身体の手だからである。他人もこの共現前の延長によって現れてくるのであり、彼とわたしとは、いわば同じ間身体性の器官なのだ」
もしかしたら、あなたが触れているのは人の肌かもしれません。その人の肌は、あなたに触れられながらも、あなたに触れている。触れるとは常に「触れ合い」なのです。この触れ合いに、何も感じずブレないでいるほうが失礼ですよね。
触れる相手は人ではありません。ボールペンや本、服や靴、家具にパソコンに携帯電話。そして建物に道路。確かに無機質だけど、物との関係にも「触れ合い」があります。手に馴染んだ道具、目に馴染んだ街並みなどは、その好い例でしょう。馴染みのない街では、なんとなくドキドキしてしまいます。それが感覚の証拠です。機械だったら、どんな場所に置かれても、ブレもしませんし、揺らぎもしません。