デマという「人災」を防ぐには
いまあらためてデマと災害を考える
生命への危機感がデマを増幅させる
流言蜚語は、ある情報を伝達するという意味では報道の一種としての機能を持つ。だが、正規の報道とは違うアブノーマルな報道である。例えば正規の報道が「大臣が死亡した」と伝える一方で、「大臣はどうやら自殺したらしい」と伝わるのが流言蜚語である。
このような憶測が生まれて広まりやすいのは、報道機関が麻痺していたり検閲がかかっていたりすることで、情報に制限が働いている場合や、大臣が実際には自殺したことこそが事実であるべきだという願望を多くの人が抱いている場合においてであろう。
人間は自己と環境との関係について、何らかのイメージを持つことで滞りなく生活できるようになる。だが、突然の大災害による環境の激変と情報の枯渇に見舞われることで平時のイメージは崩壊を余儀なくされる。
新たにイメージを作り出そうとしても、目隠しをされたまま手探りで何かを探さなければならない状況の中では、たまたま手が届く範囲にあった情報に食いつくいてしまうかもしれない。それだけでなく、いち早くこの情報を周りの人に知らせなければという善意から、拡散を行うようにさえなるだろう。
もう少しわかりやすい例に置き換えてみよう。例えば、吹雪に閉ざされて通信手段も遮断された雪山のホテルで殺人事件に遭遇したとする。犯人はまだ判明していない状況だ。
宿泊客、従業員、支配人は皆、わずかな情報からなんとかして真実を探ろうとするだろう。なかには名探偵の真似をして憶測に基づく自説を披露する者が現れるかもしれないし、感情的なこじれから実際には無実の者に罪を着せようとする者も現れるかもしれない。やがてお互いが疑心暗鬼に陥って、さらなる悲劇が生じる可能性さえ考えられる。
これと同じように、枯渇する情報に対する「飢え」と、命を脅かされるほどの緊急事態が重なれば、デマが拡散するための条件が整うこととなるのだ。