子どもたちの “嫌がらせ” に耐える教師たち 生徒が放った言葉に唖然…【西岡正樹】
子たちはなぜ不満を溜め込んでしまったのか?
◾️どうしてこんなことになってしまったのか?
どうしてこのようになってしまったのか、Y教諭は考えたのだ。
「子どもたちの不満を私自身がしっかりと受け止めていなかったんだと思います。これぐらいで大丈夫だろう、という軽い気持ちが自分の中にあって、子どもたちの真剣な憤りが分かっていなかったんです」
孝弘(仮名)が学習に参加できない。クラスの集団に馴染めず、自分にやる気が出ないと何もやらなかった。孝弘はやらなくてはいけないこともやれなかったのだ。彼の特殊性を理解していたY教諭は、他の子と同じように対応できない孝弘を、ある意味において特別扱いしていた。それを他の子どもたちも理解しているだろうと高をくくっていた。
しかし、そのことをきちんと説明されていなかった子どもたちの心の中では、彼だけ許されていることへの不満が少しずつ溜まっていたのだ。
「どうしてあいつだけがやらなくていいの」
ある時から、坂を転がる雪だるまのようにその不満が大きくなり、時間の経過とともに不満が巨大化していった。そして、とうとう、子どもたちはY教諭や孝弘への「不満」を「嫌がらせ」や「いじめ」へと行動化していったのだ。
さらに、
「原因はそれだけではありません。子ども同士の問題行動に対しても自分が子どもの言葉をしっかりと受け止めて、対応しきれていなかったんだと思います」
Y教諭は反省している。
「子ども同士の食い違う思いを繋ぎ、子どもたちが納得し、次の良い行動に繋げられることを意識してやれば良かったと今では思えるのですが、その時は、子どもたちを甘く見ていて、起こった問題をうまく収めることだけしか考えていませんでした」
一人ひとりが納得しないまま事を収めるので、不満があちこちで「ぼこっ、ぼこっ」吹きあがり、問題が次々に起きる。その度に個々の不満は解消されないまま終わるので、不満は大きくなるばかりだった。そして、その大きさと比例するように、Y教諭への嫌がらせは理不尽さを増していったのだ。
それは、道徳の時間に起きた。
その日の道徳は、将来、自分が大人になったらどんな大人になりたいか意識させると共に、今の自分を見つめさせることが目的だった。子どもとの関係がしっかりとれていない現状では、子ども同士の思いが活発に交換されることまで期待していないが、一人ひとりの素直な思いが語られることを、Y教諭は期待していた。
まず、洋一(仮名)が手を挙げた。そして、気負うことなく
「Y先生みたいな大人にはなりたくありません」
短く、そう言い放ったのだ。
笑い声が遠くに聞こえ、目の前にいる子どもの頷く顔が見えた。自分の体が熱くなり、顔が紅潮していく。思いがけない発言だった。そこまで思っていたのか。自尊心がガラガラと崩れ落ちていく。その崩れ落ちた自尊心の上を言葉が流れていく。
「小学校の先生にはなりたくないな」
どこかからか、独り言のような声が聴こえた。