明治維新からわずか40年で
日本人の世界観は激変した
日本人は世界をいかにみてきたか 最終回
『世界一受けたい授業』(日本テレビ系)のスペシャル講師としてもおなじみの河合敦先生に話を伺った。
■「日清韓同盟を結ぶべき」という勝海舟
明治政府が恐れた外国はロシア帝国であった。容赦なくロシアは領土を膨張させ、南下してきた。幕末には対馬を占領しようとしたし、日露両国人雑居と決まっていた樺太を我が物にしようと、現地の日本人に圧迫を加え、ついに放棄を余儀なくされた。このため日本人は異常なほどにロシアの侵略を恐れるようになった。
明治政府は、朝鮮を開国させて日本の支援で近代化させ、日朝が協力してロシアの南下を食い止めようと考えた。ところが、朝鮮を属国と考えていた清国がこれを認めなかったので、明治二十七年(一八九七)に日清戦争に発展する。結果は日本の大勝に終わるが、清国弱しとみた列強諸国が租借というかたちで清国内に勢力範囲を設定、中国大陸は列強の半植民地状態に置かれてしまう。とくにロシアは満州を不法占拠したうえ、朝鮮(韓国)に親露政権が生まれるという、最悪の結果を招いてしまったのである。
勝海舟はまさにこの事態を恐れ、次のように語っている。
「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかつて、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとへ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分かつたら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。一体支那五億の民衆は日本にとつて最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。おれは維新前から日清韓三国合従の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。今日になつて兄弟喧嘩をして、支邦の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところとなるくらゐのものサ」(江藤淳、松浦玲編『氷川清話』講談社学術文庫)
勝はむしろ日清韓の同盟によってアジアを侵略する欧米列強を防ごうと考えていたのである。だが、事態は全く反対の方向へと進む。
いずれにせよ、こうして満州から朝鮮半島にまでロシアの力がおよぶと、日本はロシアの満州支配を認めるから、朝鮮から撤退してほしいと外交交渉を始め、明治三十五年(一九〇二)、ロシアを牽制するため、日英同盟を締結するのである。
だが、栄光ある孤立を保ってきた大英帝国が日本と同盟を結んでくれたことで、日本人の世界観は一変する。マスコミがあおったこともあり、これまでロシアにおののき恐露病という言葉が生まれるほどだったのに、イギリスの後援を得たとたん、「ロシアと戦うべきだ」という主戦論が急速に高まっていったのだ。現金なものだ。
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