九鬼水軍の旗印! 甲冑研究家の秘蔵品公開!
名将甲冑大全 第4回
知られざる由来、隠されたエピソード、甲冑の見どころまで。甲冑研究家の伊澤昭二氏が門外不出!?の秘蔵コレクションをはじめ、全国に伝わる名将たちの甲冑を徹底解剖!
九鬼義隆(くきよしたか)は織田信長・豊臣秀吉に仕えた水軍の将で、志摩の鳥羽城を本拠として活躍している。信長のもとでは伊勢長島攻め、摂津花隈城攻めなど、秀吉のもとでは小牧の戦い、九州陣・小田原攻めなどに、水軍を率いて会場を固めている。
義隆の名を天下に轟かせた戦いは、天正6年(1578)11月の木津川の戦いであろう。毛利水軍を撃破し、本願寺開城への道をつくったことである。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では西軍に属し、敗れて鳥羽の答志島で自刃している。
このあら波の旗印は九鬼義隆所用と伝えている。
「あら波」の文字は、紺絹地に金泥(きんでい)で描かれており、俗にいう「紺地金泥」である。戦国時代の文字に変化してゆく過渡期の書体の特徴を良く表わしている。幅は63センチ、真ん中でつなぎ合わせている。これも時代を見る大きなポイントの一つでもある。武田信玄の旗印で良く知られている孫子の旗(風林火山)は、紺地金泥で描かれた大表的な遺品で、本品のあら波の旗印と良く類似する。
旗印とは、一つの隊の印として本陣に立てるもので、戦国時代頃から桃山時代が全盛で江戸時代まで試用された。江戸時代の軍役規定では5000石以上から一隊の印として、旗印の使用が認められている。
文・伊澤昭二(歴史・甲冑研究家)
このあら波の旗印は秀吉の小田原城攻めに、早川口に出陣した折に使用か、夢も膨らむ一流である。