「生徒が授業中どれだけ集中しているか」手首にリストバンドで脈拍データ化。これって本気ですか?【西岡正樹】
「いま学校で起きていること」のすべては大人社会の縮図である
埼玉県久喜市の、ある公立中学校での授業が話題だ。生徒の手首に、脈拍を測るリストバンド型の端末を巻く。すると生徒の「集中度」をほぼリアルタイムで教師が把握できるというシステムを導入したというのだ。そんなバカな・・・と思うなかれ。これ本当の話。「生徒を見るのは数値。生徒の出来不出来を見るのも数値」 数値以外は重要ではないとでも言っているかのような学校ディストピア。小学校教員歴40年の西岡正樹氏が語る「いま学校で起きていることは何か」。生徒を見た気になっているこの学校教育の姿は、そのままこの社会の闇を象徴していないか?
授業が終わった。子どもたちの体から力が抜けていくのが、見ている私にも分かる。教室の中にあった緊張感が、一気になくなったのを見計らって声をかけた。
「この授業でずっと集中できた人はどれくらいいるかな?」
すると、なんとなんと、ほとんどの子どもが手を挙げるではないか(集中していないと分かったら、注意されると思い手を挙げた子も多いだろう)。あきらかに手いたずらをしたり、先生に注意されたりした子どもは流石に手を挙げにくいだろうが、聞いていなくても聞いていたふりをしていた子どもはちゃっかりと手をあげた。
その様子を見て、
「何かに集中して一生懸命に取り組んでいても、それがいつまでも続くわけではないよね。『集中力』って何かの理由で突然切れることがあるでしょう。先生は『集中力』が切れるのは仕方がないし、どっちかというと『集中力』が切れることって当たり前なんじゃないかな、と思っている。逆に、『集中力』が切れない人って凄いな、って先生は思っているんだ」
学期初め、私は担任した子どもたちに、このような話を度々する。その時も、子どもたちは「ほっ」としたような顔をした。
冬休み前の、ある日の国語の時間、学級全体を通して見れば集中している子どもが目立っていた。授業をしている私も気持ちよくできたし、子どもたちの満足そうな顔がたくさん見られる。授業後、また子どもたちに声をかけた。
「この授業は集中できたなって自分で思う人はどれぐらいいる?」
以外にも、予想に反して半分ぐらいの子どもしか手を挙げなかったのだ。
「今日の国語はとても集中しているように思ったけど、集中していたと思える人は半分ぐらいしかいないんだね」
すると、大吉(仮名)が手を挙げた。
「僕は集中していたけど途中で集中力が切れました。だから、手を挙げませんでした」
「そうなんだ。でも、大吉は途中でまた気持ちを入れなおして、集中し始めたじゃないか」
「それはそうなんだけど、ずっと集中していたのではなくて一回切れたから、集中していたとは言えません」
「手を挙げなかった人で、大吉と同じような考えで手を挙げなかった人っている?」
5、6人の子どもが手を挙げた。
「何回か、『集中力は切れる』というお話をしたよね。やはり、集中力は切れるものなんだよ。大吉の集中力は一度切れたけれど、大吉は気持ちを入れ替えて自分で集中し直すことができたんだ。それができるのも、「みんなの力」だと思う。切れた集中力をごまかして聞いているふりをしていると、ずっと集中できないまま終わってしまうけど、(たまに「ふり」が「ふり」でなくなって聞いているに変わることもある)大吉のように自分の集中力が切れたことを自覚し、もう一度集中を取り戻せたらそれはそれで集中していたと言っていいんだよ」
授業中の子どもの様子を見ていると、何かの拍子に「プツン」と集中が切れることがあれば、何かの理由で集中力を取り戻すこともある。
「この子をこのままにしていたら、授業が終わるまで授業に戻ってこないな」と判断した時、私は子どもに声をかける。
「日菜子(仮名)大丈夫か」
「は、はい。大丈夫です」
このような一言がきっかけで、再び子どもの集中力が高まることはよく見られる光景だ。