頑張ることは呼吸と同じくらい当たり前にするべきこと。【神野藍】第8回
神野藍「 私 を ほ ど く 」 〜 AV女優「渡辺まお」回顧録 〜連載第8回
【「頑張っていること」を初めて否定されたときのこと】
誰かのため、その誰かは肉親でも友人でも、もっと大きな集団でも何でもいい、「人のために役に立っている」実感を得たくて、目の前に転がってくることを拾い集めていた。結果として、私の飢えが満たされなくても、それらは私の体裁を綺麗に整えてくれたし、内申書の欄を異様なまでに埋め尽くしてくれた。そのおかげで、違う場所に行ける切符を手にすることができた。きっと東京に行きたいと決断したのは自分なりのSOSだったのかもしれない。このままずっと同じ場所に留まっていたら、そのうち私の全てまでも錆びついていってしまう可能性を感じ取ったのだろう。18歳の小さな世界で生きてきた私は身を置く環境や取り巻く人々が変われば、自分も色々なものを断ち切れると信じて疑わなかった。
上京してしばらくは適当に暮らしていた。特に何かに必死になるわけでもなく、ごく普通の大学生がやるようなことを一通り試してみて、「なんだこんなもんか」と日々を消費していっていた。夏に一度地元に帰った時に、両親に「何もしない大学生」という姿に対し、少し落胆された。その顔が東京に帰っても頭から離れなくて、何かまたやらないと焦燥感だけが募っていった。
そこからは前回書いた通りだ。目の前に頑張ることが見つかれば、すぐに飛びついた。一定期間必死にくらいつき、一通り習得できたらまた次の何かに飛び移るというのを繰り返していた。そんな風に過ごしていた大学二年の夏、社用パソコンを実家に持ち帰って作業し続けていた私に対して「そんなに頑張って…そこで働くわけでもないのに、そんなに頑張っても意味がないじゃないか」と両親が言い始めた。「頑張っていること」を否定されたのは初めてであった。それを心配と捉えられていたら、どんなに良かっただろうか。これまでの人生で少し屈折してしまった私にとっては、その言葉はひどく重たいもので、崖の上から背中を押されるような気分に陥ってしまった。ぷつんと自分の中で何かが途切れるような音がしたが、深く考えないようにした。