「大うつけ」と蔑まれた頃の拠点
信長初陣の城・那古野城(前編)
織田信秀は、天文9年(1540)に西三河の安祥城(あんしょうじょう)を攻略し、天文11年(1542)には小豆坂(あずきざか)の戦いで今川を破り西三河を制圧した。そして天文13年(1544)からは美濃(みの)の攻略を開始する。
信長は天文15年(1546)に13歳にして古渡城(ふるわたりじょう)で元服(げんぷく」した。そして、翌年に那古野城(なごやじょう・注)を拠点にしながら吉良大浜の戦いで初陣をあげる。しかし、この頃の信長は奇行を見せ尾張の大うつけと呼ばれるようになっていた。
信秀は天文16年(1547)9月、美濃に進出し稲葉山を攻めた。そして、天文17年(1548)に古渡城を廃城して末盛城(すえもりじょう)を築城し移転する。美濃への攻略を強めたが、結局、斎藤道三に敗れ美濃攻略は失敗し、天文20年(1551)3月、信秀は流行の疫病がもとで、祈祷のかいなく42歳で末盛城で病死した。
『信長公記(しんちょうこうき)』によると、万松寺(ばんしょうじ)で行われた父の葬式に当たって「長柄の太刀・脇差しを縄で結い、髪を茶筅(ちゃせん)に巻き、袴をはいたままで仏前に上がり、抹香(まっこう)をひとつかみし仏前に投げ」と記されている。そのエピソードは有名である。
信秀の死により美濃の攻略は成らなかった、そして織田家の崩壊は進むこととなる。結果、美濃とは和睦することとなり、道三の娘・濃姫(のうひめ)を嫡男信長の嫁として迎え入れることとなった。(続く)
(注)那古野城データ
城の種類/平城
所在地/愛知県名古屋市中区二の丸1
築城年/大永年間
施設/御殿、本丸、櫓、土塁、堀
文/木戸雅寿(きど・まさあき)
1958年神戸市生まれ。奈良大学文学部史学科考古学専攻卒業。広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、滋賀県安土城郭調査研究所を経て、現在滋賀県教育委員会文化財保護課。専門は日本考古学。主な著書に『よみがえる安土城』(吉川弘文館)、『天下布武の城 安土城』(新泉社)等。