“第三の(堀の)男”・足利義昭
季節と時節でつづる戦国おりおり
快晴炎天。5月14日の京都は、もうすっかり初夏の気候です。この日、地下鉄烏丸線丸太町駅から徒歩すぐ、丸太町室町交差点の北西、平安女学院の南側の逆L字型の発掘調査地では足利義昭の旧二条城(二条御所)の内堀・外堀の中間に掘られたと思われる中間堀の現地見学会がおこなわれておりました(16日まで)。
堀の深さは最深部で3.4m、幅は7m。石積みはされておらず、土を掘り返しただけの「素掘り」の堀です。
堀跡は東西に走っており、外に向けた南側(写真右奥)は階段状に3段となっているのに対し、内向きの北側はストンとストレートな急傾斜になっている様が分かるでしょうか。これによって敵が登りづらくした上で、堀際にある「柱列」の表示の通り、柵を設けて2重に敵の侵入を遮る構造となっていました。
永禄12年(1569)2月27日、織田信長は将軍義昭のために旧二条城の修築を開始、あっと言う間に完成させました。宣教師フロイスによれば、この時見物の女性をからかった人夫がひとり、信長に一刀両断されて死んでいます。
その後義昭と信長の関係は悪化し、元亀4年(1573)には敵対に至るのですが、この中間堀はその直前に義昭が急遽掘らせたものと推定されています。
堀から発掘された遺物の中には織部好みの茶器などもあったので、義昭が信長と決裂してこの城から宇治の槇島城に退去した後も、少なくとも桃山時代末から江戸時代初期まではこの堀は放置され、ゴミ捨て場と化していたものでしょうか。
それにしても驚かされるのは、フロイスの記録の正確さです。
彼は信長が旧二条城を築く際に地蔵や五輪塔などを石材として転用したと記しましたが、それは今から40年ほど前に地下鉄工事で内堀・外堀が発掘された時に事実であった事が証明されています。
今回の中間堀についても彼は
「子を美濃に連れ行かんとことを恐れ、防禦のため、城の周囲に新に堀を作」った、と『耶蘇会士日本通信』に書き残しました。
堀の実在はもちろんですが、実際にこのあと7月18日に義昭は槇島城で信長に降伏した際、子の義尋が人質として取り上げられてしまっています。
これについて『信長公記』には「若公(わかぎみ)様をば止め置かれ」とありますが、フロイスは人質をめぐる攻防が両者の対立の理由のひとつだった事を鋭く把握していた訳で、その情報収集力と分析力には驚嘆する他ありません。
なお、この発掘現場から烏丸通を東へ横断し、京都御苑西南隅より少し北あたりを歩くと、40年前の地下鉄工事の際に発掘された旧二条第石垣の一部が移設復元されています。