蛭子能収「食える様になったのは32歳です」
蛭子能収さん30日毎日連載 Q3.何年も原稿料をもらえなくても漫画を続けられたのは?
「昔から蛭子さんの漫画が好きだった」って言ってくれる人がいたんです
上京してしばらくは看板屋に勤めながら、夜は漫画を書き続けたんです。何度も出版社に持ち込んだりもしたんですけど、ダメだったんですね。でもやっと『ガロ』に入選して。それは本当に嬉しかったですね。ただし『ガロ』というところが、入選しても原稿料をぜんぜんくれないところなんですよ。
時々『ガロ』の編集部に行くと、「好きな漫画本を持っていってもいいですよ」って言われたんです。それくらいですね。それから5,6年書き続けてやっと単行本出してもらえて、それで印税はもらえたんですけど、それまではゼロ。だから看板屋の仕事は辞めれなかったですね。
ただその頃、コンビニがあちこちにできはじめたんですよ。そうするとコンビニに置く本が必要になったわけです。それも大人向けのちょっとエッチな本が。そういった本ってそれまで本屋には置いてなくって、自販機で売ってたんですね。それでコンビニ向けのエッチな本を作る必要が出てきて、大手の出版社を辞めた人が2人くらいで本作りだしたりして、その中のひとつが俺に注目してくれたんですよ。
「昔から蛭子さんの漫画が好きだった」って言ってくれて、月刊の連載漫画を頼まれたんです。それで12ページくらいの漫画を描かせてもらうことになって。それでやっと原稿料が入るようになったんです。
それと同時に「ヘタウマ」というのが流行りだしまして、なんかそういう流行に乗れたんですね。代表でいえば湯村輝彦さん。イラストレーターとしては超一流の人なんですけどね。
ちょうど俺もその流行りに乗っからせてもらって。「ヘタウマ」って呼ばれることは気にならなかったですね、それで売れるんだったら。自分のことは全然ヘタだと思ってましたからね。
連載持ってちょっと生活が安定するようになったんですけど、それが32歳の頃かな。やっと漫画で食えるようになったのがその歳ですよ。