スティーブン・スピルバーグ監督が警告して話題にもなったVR技術。
最新の映像技術はいま私たちにどんな影響を与えているのか?
名古屋の大学や市民講座で大人気の哲学講師・加藤博子氏が現代人の視覚に警鐘をならす!
目を疑う世界
現代人にとって視覚は、格別に重要な感覚で、多くの情報が目から入ってきますから、とてつもなく目の疲れる日々です。光るPCのディスプレイやスマホ画面を長時間も見続けてしまい、視力は悪化してゆく一方です。確か昔は、テレビは離れて見なさいと注意されたはずなのに、今は至近距離でモニターを凝視(ぎょうし)しています。
私のように強度に近眼の者は、レンズを通さなければほとんど何も見えません。朝、目が覚めても、裸眼でうろうろしているうちは起床したとはいえず、世界は印象派のクロード・モネ(一八四〇~一九二六)の絵画のように見えています。眼鏡をかけたりコンタクトレンズを入れたりしなければ、点描画の世界です。
さて、いざレンズで視力を補正しても、私が見るものといえば、モニターに点滅する光だけ。テレビ映像やネット上の動画なのです。
目が覚めて、ゆっくりと庭に降りて花の成長を愛でながら水をやったり、遠くに見える山々に手を合わせるような贅沢な時間は、なかなか得られません。
五感の中で視覚は、もっとも遠くの情報を私たちに届けてくれます。もちろん嗅覚や聴覚が鋭敏な方は、かなり遠くの微かな変化に気づくことができます。しかし、なんといっても人は、裸眼で星の光を見ることができるのです。大昔から人間は、夜空にまたたく星々を観察してはサソリや天秤(てんびん)などの形象をそこに見いだし、物語をつむいできたのです。
夜空の星を見上げる際の目の働かせ方と、モニター画面で点滅する光を何時間も見続ける際のそれとは、はたして同じなのでしょうか。ビジュアル社会となって、視覚に頼ってばかりの私たちですが、目を酷使するといっても、ほとんどの場合、ごく身近なものを視野に収めるだけで、それ以外のものは視界の外へと追いやってはいないでしょうか。
この章では、これまでとは少し異なる考察が必要になります。他の感覚では、科学技術の進歩によって、とかく鈍りがちではあるが、私たちが本来は発揮できるはずの感じる力を呼び覚まそう、そのためにはどうしたらよいか、という方向で考えてきました。
しかし視覚においては、映像技術の飛躍的な進歩のおかげで、私たちは常に何かを見て、目を酷使しています。だから視力は落ちていますが、それも眼鏡やコンタクトレンズで補正できます。それゆえ視覚については、「しっかり目を凝らして世界をよく見てみましょう」というシンプルな話では済まないのです。
格段に進歩した映像技術は、私たちに、目を疑うような体験をもたらしてくれています。視力を補正する眼鏡など存在せず、裸眼でしか世界を見てこなかった長い年月からすれば、CGなどによって異様なほどリアルな映像を体験できるようになったことは、信じがたい進歩です。こうした急激な変化が、私たちの心身に大きな影響を与えないはずがないのです。それがどのようなものであるかを正確につかむために、この章では、過去に学ぶことから始めたいと思います。少し前の時代を生きた人々の視覚体験と比べてみるのです。
ビジュアル技術は今なお急激に進化していますが、それでも少し立ち止まって、いったい何が起こっているのかを考えることはできます。この時代の人々に、そしてあなた個人に、今いったい何が見えていて、何が見えなくなっているのか、何から目を逸(そ)らしているのか、何に対して目を瞑っているのかを、あらためて見つめ直してみませんか。
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