チェスでヒトラーに抗した男【緒形圭子】「視点が変わる読書」連載第1回
「視点が変わる読書」連載第1回「チェスでヒトラーに抗した男」〜『チェスの話 ツヴァイク短編集』大久保和郎 他訳
◾️精神の錯乱の極限にある時、いったい何が人を支えるのか?
伝記小説で大きな成功をおさめる一方ツヴァイクは市井の人々を主人公にした魅力的な短編を数多く残している。中に戦争による悲劇をテーマにした作品がいくつかあり、『チェスの話』もその一つである。
ニューヨークを発ちブエノスアイレスに向かう大型客船の中で、私はチェスの世界チャンピオン、ミルコ・チェントヴィッツに遭遇する。チェントヴィッツはユーゴスラビアの赤貧の家の出ながら、チェスの才能によって、のしあがった人物だった。船客の一人が高額の賞金をかけてチェントヴィッツに勝負を挑み、その戦いの最中、挑戦者にアドバイスをするB博士が現れる。B博士の指示に従った挑戦者は勝負をドローに持ち込む。周囲に請われ、翌日チェントヴィッツと勝負をすることになったB博士から、私は驚愕の話を聞くことになる。
オーストリアの名家の出であるB博士はウィーンで弁護士事務所を営み、貴族の財産管理を行っていた。ところがオーストリア併合を目論むヒトラーの命により、B博士はゲシュタポの本部となっていたメトロポール・ホテルに軟禁され、隠し財産の秘密を吐くよう強要された。手荒な拷問を受けたわけではないが、簡素な家具しかない部屋に入れられ、訊問以外は人と話すことも出来ず、本も新聞もない閉ざされた空間の中に拘束されたB博士は次第に精神を病んでいく。それでも口を割ろうとしないB博士を救ったのは、監視の目を盗んで手に入れた、一冊のチェスの教本だった。そこには150ほどの名人の棋譜が収録されていて、B博士はその棋譜を全て覚え、本に書いてある試合は全てそらでできるようになった。頭の中で繰り返し試合を再現し、それに飽きると今度は頭の中で新しい試合を作り上げていった。
二つの頭脳で行われるチェスの試合を一人の頭の中で行うということは自分の中に二人の人間を作り上げることである。それによる精神の錯乱の極限をツヴァイクはさすがの技量で描ききっており、この小説の読みどころだ。
今年の7月21日から東京のシネマート新宿をはじめ全国で上映されている映画『ナチスに仕掛けたチェスゲーム』は『チェスの話』が原作となっている。監督のフィリップ・シュテルツェルは少年時代にこの小説を読んで魅了され、いつか自分で映画を撮りたいと思っていたのだそうだ。
それが何故今なのかと言えば、変わるはずはないと信じられていた自由な世界が、驚くほど短い間に簡単にひっくり返されるという物語に、現代の社会状況との共通点を見出し、警告の思いも込めて映画を撮ったのだという。映画では原作を大きく改変し、B博士とナチスとの闘いをクローズアップしている。
昨日まで続いていた平穏な生活がいきなり破壊され、自分たちの国が強権によって支配された時、私たちはどうやってそれに抗えばいいのか。抗わなければ、あるいは抗いきれなければどうなってしまうのか。抗ってまで守るべきものとは一体何なのか。
そうしたことを、『チェスの話』は考えさせてくれる。
ツヴァイクの最期を知れば、この本への理解はさらに深まるに違いない。
文:緒形圭子
<執筆者プロフィール>
緒形圭子 おがた けいこ
文筆家。
1964年千葉県生まれ。慶應大学卒。出版社勤務を経て、文筆業に。
『新潮』に小説「家の誇り」、「銀葉カエデの丘」を発表。
紺野美沙子の朗読座で「さがりばな」、「鶴の恩返し」の脚本を手掛ける。
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