あまりにヘタレなマスコミに島田雅彦がモノ申す。
日本のジャーナリズムは政府の広報になったのか!?
ジャーナリズムとは、報じられたくない事を報じることだ
クレーマーをどうあしらうか?
────最近は、世論が過剰なほどに反応する場面が多い。一億総クレーマー時代の到来か? それに対するマスコミの腰の引け方もひどい。
なにかクレームが入るとまともに検討すらしないですぐに引っ込める。マスメディアは基本、ヘタレなんですよ。
いまの放送にしても規制があるからと言ったって、だいたいそういう放送の規制というのは各局の自主規制ですよ。たとえば「こういう番組は子どもに害がある」とか、「こういう色っぽい番組をこの時間帯にやるのはいかがなものか」とか、そういうことを言ってくる。
そんなクレームなんて全体の視聴者数から見ればごく少数であるにもかかわらず、局側が事なかれ主義で過剰反応する。新聞も放送局も、そういった道徳臭を撒き散らすクレーマーに弱くて、ほんとに事なかれ主義で自主規制します。そうやってナイーブ過ぎる弱腰な対応をしているんですから、政権側から「これはやめろ」などと言われて簡単に屈するようでは、自分で自分の首を絞めているようなものです。
どうでもいいような視聴者のクレーム、難癖にさえ自主規制して、全てを穏便に済ませようとすれば、番組がつまらなくなるのは当然です。すでにテレビや大新聞の記事はネットより劣るし、検閲されていることに多くが気づいており、ますます視聴率や購読者数が落ちてゆくでしょう。株主の利益を考えたら、即刻、政権広報や事なかれ主義を改めるべきです。
メジャー放送局は電波法に基づく政府の許認可によって、寡占的な利権を貪っているので、政府に楯突けないとかいっていますし、記者クラブも政府の情報を独占的に手に入れるためのシステムで、フリージャーナリズムを否定する矛盾の産物です。
────リークされた有名人の不倫ネタに対して、一般大衆があれこれ意見をする現象についてどう思うか?
基本的には「放っておけ」という話でしょ。そういうことでいちいち道徳的に反応するとか「サイテー」とか言ったりするとか、あの反応はなんなのか。そういうある種の「おせっかい」に関して、昔に比べてクレーマーが増えたのと、炎上が怖いというのもあるのでしょうが、クレームに対して過剰反応と言えるくらいの低姿勢でのお詫びぶり。それにますます図に乗るクレーマーという構図。
────石田純一というと、いまだに枕言葉みたいに「不倫は文化だ」で語られるが、あれは別に彼が「不倫は文化」と言っているわけではなく、もっとちゃんとした文脈の中で言っている。
「不倫から生まれてくる小説だとか文化もあるでしょ」といったニュアンスで言ったのに、勝手に「不倫は文化」だと言ったことにされている。僕は、あの当時からずっと石田純一擁護論を展開してきたが、影響力がなさすぎて。彼の娘は学校で「文化の子」と言っていじめられたそうで、まったくひどい話である。基本的に小児化しているのではないか。例のベッキーが週刊文春を「センテンス・スプリング」と言った件とか、偽外国人だったことがバレちゃった、ショーンKの「ホラッチョ」とか、野々村「号泣議員」とか、ああいうワンフレーズでズバッと切っちゃうのって、もう抗いようがない。前にハゲの友だちが、自分どんなにいいことを言っても「でもおまえハゲじゃん」って言われたら、ぜんぶ引っくり返されてしまうと嘆いていた。
私にも思い当たる話です。島田雅彦と聞けば、単に「サヨク」とか,「変態」とか、「純文学」とか、「最多落選(芥川賞)」などといわれてるかもしれません。実際、リテラシーの低下は著しいと嘆き続けて、二十年くらい経った気がします。人の話を聞かない、聞いても、キャッチコピーになっている部分だけしか耳に入らない。そんな人々と伝言ゲームをやったら、悲惨な目に遭うでしょう。たとえば、私が「あなたの心に火をつけたい」といったら、何人か経由した後、「あなたの家に放火した」ことになっているかもしれない。これはかなり危険な状態です。何も悪いことをしていないのに、犯罪者扱いされたり、善意が誤解されて、総スカンを食らったり、偏見からデマが流され、炎上したり、かつてないほどに冤罪に注意して暮らさなければならないありさまに誰もが陥っている。
────「オレの話を聞け。二分だけでいいから」という横山剣の歌がありますが、二分だけでも聞いてくれたら、誤解のしようもないと思うんだけれども、一度、誤解が刷り込まれると、それを正すのに途轍もない手間がかかってしまう。
小児化しているというのは当たっているかもしれませんね。しかし、小児なら、いって聞かせれば、わかる。小児より思い込みが激しい分、厄介です。 全体として不寛容というか、キレやすいというか、それは一種の社会現象にまで広がっている。変な遵法精神というか、規則に忠実というか、その融通の利かなさっぷりというのが時々恐ろしくなることがありますね。ケースバイケースではあるんだけども、それを一律、全部決めつけでかかったときの、さらに言えばそこに同調の雰囲気が重なっていくのと、ダブル、トリプルに悪く機能していると思います。
喫煙者であることがなぜかくも肩身が狭いのか?
────俳優の佐藤浩市が、前に出演したドラマの中で喫煙シーンがあったと言ってすごいクレームが来て、参ったみたいなこと言っているが、そのドラマの舞台設定は昭和三十年代だった。百歩譲って現代の話ならわかるが、喫煙率がいまよりずっと高くて、どこでもタバコ吸うのが当たり前だったそんな昔の話にまでクレームつけてくるって、ちょっとどうなんだろうと思う。
会社の喫煙ルームはタの部署との情報交換の場になっているといいます。しかし、そこはガス室みたいなところで、長居はできません。非喫煙者より多めに税金払っているのに、ずいぶん不当な扱いを受けているなと日々、感じています。ところで、昔は駅のプラットフォームにも灰皿があり、みんなプカプカ吸ってました。全面禁煙になってから、人身事故が増えたという気がしませんか? 電車に飛び込む前に、一服して、リラックスしたら、思いとどまる効果もあったかと思います。
────日清食品のカップヌードルのCMが視聴者のクレームでボツになった。大学教授に扮した矢口真里が授業で「二兎を追う者は一兎をも得ず」などと自虐ネタをやって講義するシーンがあるのだが、それが気に食わないと。要するに不倫をするようなタレントを、食べ物のCMに起用するのはいかがなものかという主婦層を中心とした「抗議の声」や「お叱りの声」がたくさん寄せられたということらしい。
世論はなぜこうも不寛容なのか?
────日本のマスコミの自由度が世界的に見ても一気に落ちたとういうので、ニュースにもなった。
「見たくないものは見せるな」というわがままな視聴者の要求に対して、面倒くさいから、過剰対応して、そそくさと撤回したり、謝罪してしまう体質が世の中に蔓延していくと、本当に息苦しくなる。
例えばマスコミがなぜこんなにぬるくなったかというと、結局、人事問題に行き着く。要するに事なかれ主義で、何かクレームがついたら先に謝っちゃうというのは、とりあえずそれでもって問題を顕在化させないようにすることによって、とりあえず自分は今まで通りこのポストに留まっていられる的な……。言うなれば自分が責任を取らないようにする。できるだけ自分の非を認めないこと。それだけに心を砕いてやっている。たとえば政権からなんらかの注文がついたとき、それに公然と抵抗した場合、報道各社の上司と首相が結びついていたとすると、社内の抵抗勢力と見なされてしまうので、それは人事上かなり不利になるという計算が働くでしょう。そこでやっぱり事なかれ主義に走る。結局、人事の首根っこをつかまれている状態では、「ここでたった一人の反乱をすると閑職に飛ばされる」という……。そういうことで人事的な脅迫が常にあると思います。
報道に限らずどんな企業においても、内部で不正が行なわれていたら、その内部にいる人間はよく分かっているはずです。往々にして箝口令が敷かれたりするけれども、このまま不正を隠し続けて後でバレたときに会社が被る損失のほうが、隠し続けた場合よりも大きい。そういった判断に則って内部告発をしたとする。会社としても大っぴらに報復はできませんが、あるときから内部告発した人が閑職に飛ばされる、というのはよくある話ですから。
そういう流れの中で起こっている事態なんですね、日本の報道の自由度が著しく下がったこともそうでしょうし、三菱自動車の燃費ごまかし不正問題にしてもそうでしょう。
いまの言った報道の自由という話をさらにすると、政治家というのは民間の意見を幅広く聞くためという形をとって企業だとかメディア各社と交流を持ちたがります。だから、大手マスメディアのほとんどが、安倍首相と食事の席を共にする、いわゆる「メシ友」になっていますよね。その立場上、公正中立であるべきメディアにとって、それはある種の癒着ですよね。こういうことはアメリカのジャーナリストだったら絶対にしない。そんなことをしたらまず信用されなくなりますから。でも、日本には官房機密費という、秘密裏に使える予算があって、それをジャーナリストにもばら撒いています。政権寄りの発言をする。あるいは政権批判を潰しにかかる「御用ジャーナリスト」をその裏金を使って育てたり増やしたりしているという部分はあるわけで。こうしたメディア戦略というのも当然ひとつの政治のスタイルとしては、ありなんだとは思います。問題は、そんなものに簡単に屈してしまう、腰の引けたジャーナリストの姿勢であって、それが大政翼賛のシステムを構築しやすくしているわけです。
────「報道の自由度」という観点で考えてみても、ものすごく風通しが悪くなっているのは確かで。これはもう中国だとかロシアを笑えなくなってきている状況にまで来ているわけです。
もちろんかの国では検閲とか盗聴は盛んに行われています。政権にとって不都合なジャーナリストを排除するようなことは、ロシアも中国もずっとやってきましたが、もはや日本はそれを批判できない。むろんアメリカだってそういうことはやってきましたが、その一方でスノーデンみたいな内部告発者や彼をサポートするジャーナリストが確実に存在します。情報を占有しようとする国家に対して、蜂の一刺し的な抵抗を試みる気骨のあるジャーナリストが奮起しないと、報道の自由は守れないわけですね。我々の報道の自由が脅かされている、と被害者面をしているばかりではなく、安易に政府の広報をやらされているジャーナリスト自身にも、やっぱり大きな責任があると思います。
────「ジャーナリズムとは、報じられたくない事を報じることだ。それ以外は広報にすぎない」というジョージ・オーウェルの言葉を思い出す。
ジャーナリズムと言ってもやっぱり会社組織の形で行動するわけで、トップが政権寄りになっていれば、下もそれに従わなければならない的な雰囲気ですね。いわば人事による脅しもそこに背景にはあるので。そこで果敢に政権が報じられたくない事実を公表することを躊躇ってしまうという構造的な問題もここにあると思いますけど。
────そもそも真っ当なジャーナリストを目指そうという人間は、たぶん大手のテレビ局に入ろうとか新聞社に入ろうとは考えない。特にいまの時代、転職もままならない。クビになったらもうアウト。
そういった意味でも、いまのマスコミ業界で、人事のほうばっかり気にして出世しようと思っているやつに、ロクな人間はいない。
<聞き手・白崎博史/写真・髙橋亘>