文豪にして大学教授でもある島田雅彦がモノ申す!
「若者よ、ヘタレを極めろ」という、その真意とは?
ヘタレも極めれば知る人ぞ知る的なすごい人になれる
それでも、やりたいことをやれ!
────大学教授という立場でもある島田雅彦は、ふだん学生たちにどんなアドバイスをしているのか? たとえば就職に関してなど。
大学でやりたいことがない、というような人たちは基本的に学校の成績をよくすることに努めていれば、なんとなくその時点で「給料の高さ」を目安に就活をした場合の達成度が高いと思われる。つまり合格しにくい難関企業に合格してそこの仕事をやるというパターンを踏むでしょう。
外国でも同様で、ハーバードとかイェールとかプリンストンといった名門大学を出た勉強のできる子たちでも基本、在学中に本当にやりたいことは見つからないままに就職活動に臨んで、結局、一番給料のいい金融に行くというパターン。
そういったエリートたちも途中で「もともと本当に俺がやりたかったのはこんな金融の仕事じゃない」ということに気づいて、別の業界に転職したり、あるいは鬱病になったりしていくわけですね。
────島田雅彦は金融業界に就職するという学生に、それは違うだろうと言ったりするのか?
厭味を言います。「銀行に受かりました」、「そうか、鬱で辞めるかもな」と(笑)。
よく言われるように、会社というのはその後の人生の大半を過ごすところなので、会社の色に染まるな、なんて言っても無理な話ですよね?
そうやって会社人間というか、組織の一部になることを自己実現であると見なすのかどうかの問題ですね。
多くの人はそれに甘んじているのかもしれないんだけれども、やっぱり無理があると思う。そんな杓子定規に会社に忠実な人間、会社への奉仕という形で無私を貫ける人間なんて、いるはずがない、と私には思える。
たぶん正直な人は、辞めますよ。それでもなおかつ「生活のため」とか言ってしがみついているんだったら、どこかでその補償というか、傷ついた自我の回復というか、そういう行為に走ると思う。それは何かということ。
人がたった一つのアイデンティティに奉仕するというのは、これは大昔の神話だと思う。むしろ、人はもう一つ、もう二つくらいのオルタナティブというか、別の顔というかペルソナというか、それを持つことによって、精神のバランスを取るほかないのではないか、という気がしているわけです。
会社に勤務しているときの顔が、その人の本質なのか、それが素なのかというと、たぶん違うと思う。対外的に名刺に刷られた肩書は演じてはいても、その役職だとか会社の看板を抜きにしたときに、じゃあ素の自分は何と言われて、何もないのはつまらない人間ということになる。では、一日中会社で気に染まぬ自己を演じている人間は、どうすれば、自らを解放できるのか? やっぱりもう一つ自己を解放できる場を確保できないと心を病むと思う。まあ、自己を解放するといっても趣味の変態程度ならいいのですが、そこで覗きや痴漢に走るやつが出てくると困るわけですが。
もう一つ、二つくらいの別の自分を持って生きて行け
大学の教員もサラリーマンなんだけど、定時で朝9時から夕方6時とか、あるいは残業して夜まで会社で勤務、というのはやったことがないのですが、だから逆に新橋だとかそのあたりで、そういう勤め人の方々のビヘイビアを、やや距離を置いて眺めているのが面白いんですね。
私は、彼らが会社で何をやっているのかは知らないですけども、いちおう会社を出てそのまま真っ直ぐ家に帰らずに同僚とかと飲んでいるわけですね。たとえば、虎ノ門によく行く居酒屋があるんだけど、そこは場所柄、あたり一面真っ黒です。みんなダークスーツなので。夏は真っ白ですが。
虎ノ門あたりは、客はほぼ官僚とサラリーマン。小耳を立てて彼らの聞いていると、ずっとそれぞれの役職にまつわる話もしていますけど。そうやって社内、あるいは庁内の話からちょっとプライベートに移行するんだけど、まだ酒場にいるときは、まだ半々くらいの感じ。飲み始めのときは、まだ多少、職場で与えられている役職や役割を引きずってはいるけれども、ちょっとここはオープンスタンスに構えて誰かの悪口を言ったりとかする。
そうやって、少しだけ自我を解放して。同僚と別れたあとに、真っ直ぐ家に帰らずに、ひょっとしたらどこかのキャバクラに行くかもしれないし。同僚とは来ない、自分の行きつけの店に寄って、今度はそこのオバハンのマダムに愚痴ったりして、またここでちょっとだけ解放されて。まだ足りないやつが帰りの電車で痴漢をするというコース(笑)。
これがアメリカになると、それこそ五時になるとみんな一斉にオフィスを出ていって、どこに行くかというと、カウンセラーの所なんですね。そこで高い金を払って鬱々とした日々の愚痴やら悩みを聞いてもらうわけです。
だから飲み屋に行って同僚と愚痴り合うというのは、互助的な精神分析で。お互いの苦労も気心もある程度分かっている者同士が、そうやってちょっと会社から離れて酒の力を借りつつ互いに心のマッサージをし合う。あれがないと、みんなかなり追いつめられるでしょうね。そうなったら精神科の医者が儲かるんでしょうけど。でも、それに関してひとつ言うと、一人ひとりが内省の時間を持つということ、これがあればだいぶ楽になるはずなんです。
小説家は大嘘もつくけれど、同時に自分を見つめる仕事でもある
小説家というのは基本、内省を一つの具体的な職業としている、と言ってもいいわけで。そこに精神科医もいなければ神父もいないけれど、ある種自分の弱さとか、恐れとかコンプレックスとか、そういったものを自己分析して書き記すということは、自分をちょっと突き放して観察するという作業でもあるわけです。言うなれば懺悔が商売みたいな……。
小説家は大嘘もつくけれど、それと同時に割と正直に自分を見つめるという内省の作業がセットになっていて、その点では一種の自己精神分析なんです。だからこういった文学的な作業というものは、多くの人はしないと思います。そういうことが必要なら、もっと純文学が売れているはずだもの(笑)。
ひとりで自分自身に向き合うことを避けようとするから、暇なときには本でも読むけども、それはやっぱりビジネス書か、せいぜいいってもエロ小説なんですよ。そうやって自分を見つめ直しちゃったりすると危ない、と思うんでしょうね。
自分を誤魔化しきれなくなったら、会社を辞めなくてはならなくなるかもしれないし、非道いことをやってることで鬱になってしまうかもしれない。そういう恐れはあるだろうと思う。
筋金入りのヘタレになれ
────いずれにしても、まっとうに生きていこうと思ったら心を病んでしまうというのは、何が悪いのか? 社会の構造自体か、それとも元々人間には会社みたいな組織が合っていないのか。サラリーマンという言葉が使われだしたのだってせいぜい戦後の70年くらいだろう。
理想主義者は、組織を改善しようとかシステムを改善しようとするのだけれど、うまくいくケースはあまりないと思います。無理やり自分を本来間違った組織やシステムに適応させようとすると、やっぱり自分のほうが傷ついて、メンタルをやられるというようなことになりますよね。
もともと、型が合うはずがない自我を、無理くりある枠の中に押し込むわけですから。もちろん変形はするんだけど、変形によってヒビが入ったり割れたりといった実害というのが絶対あるわけで。だから、まったく鬱とかストレスと無縁であるというサラリーマンは、いるはずがないと思いますよ。仮にそういう優秀な会社員を人工知能がやったとしても病むだろうと(笑)。
────ヘタレというとなんだか負け組の代表のようなイメージもあるけれど。
普通の評価軸で戦っても負けるので、誰も勝負してこないような場所で頑張るというのに近いものがある。だから、負け組というのは、あるひとつの競争の原理において負けた人たちであって、すべてのジャンルで負けたわけではないわけで。
より効率的にお金を稼ぐ競争で負けた人。あるいはより権力を行使できる地位に就こうとして就けなかった者。いわゆる「立身出世」は承認欲求の満たし方として世の多くの人が共有する成功の形ですが、最初からそういった立身出世が期待できないことを自覚している人、ドロップアウトした人であっても承認欲求は残っているんですね。
そういう人がどこに向かうかというと、万人が価値あるとは認めていないものであっても、その世界においては第一人者になれるというようなニッチなところなんです。例えばオタクがそうですね。この世界のこのジャンルにおいて右に出る者がないというようなものになろうとする。
だから、ヘタレというのは負け組とか脱落者といったネガティブなイメージがあるけれども、ヘタレも極めれば知る人ぞ知る的なすごい人になれるわけです。
<聞き手・白崎博史/写真・髙橋亘>