箸墓古墳はいつ造られたのか?
ここまで分かった!「卑弥呼の正体」 第5回
■発掘調査ができない箸墓古墳の謎に迫る研究
昭和20年(1945)以後、弥生時代とそれに続く古墳時代の考古学的な研究は著しく進展した。
奈良県桜井市の墳丘長約280mの巨大古墳箸墓は、宮内庁の陵墓要覧に「孝霊(こうれい)天皇皇女倭迹迹日百襲姫命 大市墓(おおいちのはか) 桜井市大字箸中 前方後円」と記載されている。考古学研究者は古くから「箸墓古墳」あるいは「箸中山古墳」と呼んできたが、宮内庁では「大市墓」を正式な名称としている。なお、天皇・皇后・皇太后(こうたいごう)の墳墓は陵墓(りょうぼ)であり、皇女の場合は御墓(おんはか)と呼ぶ。
昭和58年(1983)に開館当時、国立歴史民俗博物館の白石太一郎氏らは、同博物館の展示テーマにより、奈良県箸墓古墳の墳丘形態の研究を行った。
昭和59年(1984)、箸墓古墳の後円部と前方部の構造上の差異を指摘するなど、奈良県における最古段階の巨大前方後円墳の姿が『国立歴史民族博物館研究報告第参集』で発表された。
箸墓古墳の出土品に関しては、昭和43年(1968)11月に宮内庁書陵部の調査室員が墳丘点検で墳丘内に立入りした際に、底部穿孔(ていぶせんこう)の壺形土師器(つぼがたはじき)と特殊器台形埴輪(はにわ)片などを採集。その結果は昭和51年(1976)に発表された。
箸墓古墳は近畿地方でも最古クラスの古墳と考えられてきたが、墳丘から採集した土器は、岡山大学の近藤義郎氏らが追究していた岡山県倉敷市楯築弥生墳丘墓や総社市宮山墳丘墓発見の特殊器台や特殊壺と同一の特徴をもつことが明白となった。つまり箸墓古墳は、弥生時代終末期から古墳出現期の大古墳であることが確認されたのだ。
さらに平成10年(1998)10月の台風のため箸墓古墳の樹木が倒れ、根起きして、約3500個の土器破片が発見された。それによって土器型式による箸墓古墳の年代研究がさらに進展し、その出現は3世紀代の前半から中頃と考えられるようになった。纏向古墳群の、箸墓古墳に先行する墳丘墓群が、弥生土器に続く庄内式土器(最古の土師器〈古墳時代から平安時代まで生産された素焼きの土器〉)の時期であり、箸墓古墳の土器が庄内式に続く年代である布留(ふる)0式土器の時代であることが判明したのだ。
一方、土器型式による編年研究では布留0式土器の年代観が、240年~260年頃となり、放射性炭素14による年代測定では加速器質量分析法(AMS)によって240年~260年という年代が国立歴史民俗博物館によって提出されている(一部には年代析出法に批判もある。なお土器型式編年についても260年~280年という見方も存在している)。
土器に付着した炭化物を採取し、加速器質量分析計(AMS)を用いて測定する方法。植物などに含まれる「炭素14」が一定の早さで減少するという特性を生かして、残存する炭素量から出土品の年代を導き出せるのだ。
《ここまで分かった!「卑弥呼の正体」 第6回へつづく》