文章で描かれた絵 『四百字のデッサン』(野見山暁治) 画家の前で風景が立ち現れる瞬間とは【緒形圭子】
「視点が変わる読書」連載第4回
何が起きるか予測がつかない。これまでのやり方が通用しない。そんな時代だからこそ、硬直してしまいがちなアタマを柔らかくしてみませんか? あなたの人生が変わるきっかけになってしまうかもしれない・・・「視点が変わる読書」。連載第4回は、『四百字のデッサン』(野見山暁治著・河出文庫)を紹介します。
「視点が変わる読書」第4回
文章で描かれた絵
『四百字のデッサン』(野見山暁治) 著 河出文庫
9月2日、ホテルニューオータニ東京の鶴の間で行われた野見山暁治さんのお別れの会に行った。
開始時間の14時少し前に会場に着くと、すでに多くの人が入場を待っていた。若い人の姿はあまりなく、50代以上とおぼしき人が多かった。会場の中心には白い胡蝶蘭とかすみ草と竹で飾られた祭壇が据えられ、野見山さんの遺影が置かれていた。恐らく福岡のアトリエ近くの海岸で撮られたのだろう。海を背に穏やかな表情を見せている。
野見山暁治さんは日本を代表する洋画家である。1920年に福岡で生まれ、戦後の1952年、27歳でフランスに渡って、’64年に帰国。’72~’81年、東京藝術大学の教授を務めた。心象風景を独特な有機的形態で描くことで知られ、画家として優れた作品を制作し続け、美術界の発展に貢献したとして、2014年、92歳の時に文化勲章を受章した。
私が野見山さんの存在を知ったのは1989年だった。その前年に新卒で出版社に入社した私は書籍編集部に配属された。雑誌の刊行を主体とする出版社で、書籍編集部はできたばかり。部員は四十代の男性上司と私の二人だけだった。
上司は自分で本を出すことに精一杯で、新人にかまっている余裕はなく、結構ほったらかしにされた。雑誌に配属された同期が、先輩に連れられて取材に行ったり、撮影に行ったり、楽しそうに仕事をしているのを横目に、私は不貞腐れていた。今思えば、企画を出して通れば、どんどん本を出していいと言われていたのだから、かなり恵まれた境遇だったのだが、その頃の私は一体どうやったら一冊の本ができるのかさえよく分からなかったのだ。
そんな私の面倒をみてくれたのが、上司の仕事を通じて知り合った某経済団体の広報部の課長さんだった。課長さんは広報誌の編集長を務める傍ら、単行本の編集の仕事もしていたが、それほど忙しいわけでもないようで、広報部の直通番号に電話をして (当時はまだ携帯電話がなかった)、「今日、行ってもいいですか」と聞くと、時間が空いていれば、団体が入っているビルの地下にある喫茶店まで降りてきて、話し相手になってくれた。企画書の書き方から、原稿整理や校正など編集の基本を教えてくれたばかりか、「編集者はとにかくいい本を読まなきゃだめだ」と色々な本を紹介してくれ、その中に、野見山暁治さんの『四百字のデッサン』があった。
野見山さんには画家以外にもう一つ、エッセイの名手という顔があったのだ。
この本を読んだ時の不思議な感覚を私は今でも覚えている。大学では国文学を専攻していたので、日本文学や海外の翻訳文学には馴染みがあったが、『四百字のデッサン』は私がそれまで読んだ本とは根本的に何かが違っていた。
内容は、福岡で過ごした少年時代や、パリでの修行時代に出会った、有名、無名を問わず様々な人との思い出話なのだが、その一つ一つが風景をともなって心に沁み入ってくるのである。魅力の根源が何なのか分からないまま、私は野見山さんの処女作だという、『パリ・キュリイ病院』を読んだ。
留学時代、パリに呼び寄せた妻の陽子さんの体に癌が見つかり、亡くなるまでの数か月間を綴った本だが、哀しい内容にもかかわらず、風景描写の見事さにまいってしまった。
「ルクサンブール公園からメトロで、わずかに十分とかからないユニベルシテ病院は、だるい勾配で目の前に拡がっているモンスリイ公園の闇と、大学町を包んでいる森の闇とに挟まれて、消灯後の静寂にかくれ屋根屋根の尖塔を夜空に孤立させていた。
パリの外部を走る大通りは、ポルト・ドルレアンの明るい灯をそれ、ゆっくりと坂を登りおわると、この闇に向かって病院の傍をよぎり、そのまま夜の中に消えていた」
KEYWORDS:
✴︎KKベストセラーズ 好評既刊✴︎
『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』
国家、社会、組織、自分の将来に不安を感じているあなたへーーー
学び闘い抜く人間の「叡智」がここにある。
文藝評論家・福田和也の名エッセイ・批評を初選集
◆第一部「なぜ本を読むのか」
◆第二部「批評とは何か」
◆第三部「乱世を生きる」
総頁832頁の【完全保存版】
◎中瀬ゆかり氏 (新潮社出版部部長)
「刃物のような批評眼、圧死するほどの知の埋蔵量。
彼の登場は文壇的“事件"であり、圧倒的“天才"かつ“天災"であった。
これほどの『知の怪物』に伴走できたことは編集者人生の誉れである。」