敵であるアメリカ軍人が評価する
田中少将の戦術的合理性
ガ島輸送作戦と田中頼三少将 第5回
戦史によると、暗夜を利しての水上艦艇による輸送任務は合計45回敢行され、そのうち5回の『東京急行』を田中少将は実行に移した。被害も甚大であったが、その大半は米軍ガ島基地からの航空攻撃であった。田中少将の要請は至極当たり前のことであったが、三川軍一少将は易々諸々と死地に赴く部下がお気に入りだったらしい。
一説によると、意見具申に訪れた田中少将にむかって、同中将は「このごろ君の隊は士気が衰えて、ガ島に行くことをイヤがっているようだね」とイヤ味を言った。もともとガ島放棄を公然と主張していた田中少将は憤然と席を立ったという。兵力の逐次投入、ガ島救援の戦術不統一、戦略的思考の欠如など、実戦部隊指揮官ならではの不満がうっ積していた田中司令官は、2度とラバウルの司令部を訪れることなく、三川中将も彼の意見具申を聞き入れなかった。生命をやり取りする戦場で、不幸な対立であったといえよう。任務終了後、12月29日付で軍令部出仕と第一線部隊指揮官を外された。翌1943年(昭和18)2月5日、舞鶴警備隊司令官兼海兵団長。同年10月1日、第13根拠地隊司令官へ。表面上は通常の人事異動だが、明らかに閑職であり、懲罰的な左遷人事といわざるをえない。
前掲のモリソン博士は突然、第一線司令官から名前の消えた“偉大なるタナカ”が、「なぜ海上部隊指揮官から姿を消したのか」と不審がっている。もし彼が昭和19年度のマリアナ海戦、レイテ海戦に水上艦隊指揮官として采配を振るっていたら、米海軍は“不屈の名将”と勝敗を賭けて戦わねばならなかったからである。