中島登、隊士としての足跡1
新選組の生き残りが描いた真実 第2回
新選組の維新後の生き残りといえば、斎藤一に永倉新八、島田魁らが有名だ。中島登は、知名度では歴戦の隊長や伍長に譲るが、同志を描いた『戦友姿絵』によって、確かな足跡を遺した。その生涯と、絵に秘められた想いに迫る。
中島は近藤勇の付き人として入隊していた!
中島登(のぼり)の名が正式に隊士名簿(島田魁調整)に載るのは、慶応3年(1867)晩秋のころだといわれる。それまで日陰の存在であった諜報員から、正規の隊士になった登の職務は、「局長付」、すなわち近藤勇の付き人であった。秘書である。このころの近藤は新選組局長の隊務よりも、政局を担う幕府側の要人としての用務が多かった。
慶応3年(1867 )10月14日に将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政を朝廷に奉還し、大坂城に退いた。しかし幕府は依然として二条城に拠点をおき、ここを砦としていた。幕府要職もこの拠点で今後の政局を論結し、対応策を練っていた。近藤はその会議に加わる一員であった。
12月9日、倒幕派は王政復古の大号令を発布した。天皇の親政府が樹立され徳川幕府は消滅した。京都守護職・同所司代・同町奉行などの、京都における諸職もすべて廃止された。以後のポストはすべて徳川慶喜個人に雇われたいわゆる家職である。が、徳川家の家臣にそんな意識はない。「すべて薩摩の謀略だ」と考えて、依然として上様(将軍)も幕府も健在だ。
「鎌倉幕府以来政権は武士に任されてきた。長袖(公家)に政務なんぞやれるわけがねぇ。すぐ音をあげてもう一度上様に政務をたのむに違いねえ」
と、旧幕府人はみんなそう思っていた。しかしそれは、目算違いだった。
新政府は慶喜に追い打ちをかけた。「納地納官(領地と官位の剥奪)」をおこなうべく連日協議した。徳川家の領地を根こそぎ取り上げ、慶喜を一介の浪人にしてしまおうというのだ。しかしこれにはさすがに公家の中でも「ひどすぎる」という意見が出て会議は紛糾した。
御所の公家にも親幕派がいる。情報はすぐもれる。その情報をもとにして二条城内でも連日会議がおこなわれた。12月28日。近藤勇は20人ばかりの供をつれて二条城の会議に出席した。その帰途、旧新選組参謀・伊東甲子太郎(いとうかしたろう)配下の篠原泰之進(しのはらたいのしん)らの待ち伏せをうけて、銃で狙撃をうけた。重傷である。
王政復古後、新選組は屯所を伏見奉行所に移した。旧幕府の要職級にランクされた近藤は大坂城へ逃げ帰った。将軍の医師松本良順が手当する。この事件の「20人の供」の中に登がいたのかどうかははっきりしない。いたのなら当然本人あるいは他人の記録本、たとえば島田魁の書き残したものに記載されているはずだが、それを示すものはない。