校外学舎の悲しき夕食【新保信長】「食堂生まれ、外食育ち」40品目 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

BEST TiMES(ベストタイムズ) | KKベストセラーズ

校外学舎の悲しき夕食【新保信長】「食堂生まれ、外食育ち」40品目

【隔週連載】新保信長「食堂生まれ、外食育ち」40品目


「食堂生まれ、外食育ち」の編集者・新保信長さんが、外食にまつわるアレコレを綴っていく好評の連載エッセイ。ただし、いわゆるグルメエッセイとは違って「味には基本的に言及しない」というのがミソ。外食ならではの出来事や人間模様について、実家の食堂の思い出も含めて語られるささやかなドラマの数々。いつかあの時の〝外食〟の時空間へーー。それでは【40品目】「校外学舎の悲しき夕食」をご賞味あれ!


イラスト:おくやま ゆか

 

【40品目】校外学舎の悲しき夕食

 

 私が通っていた小学校では、高学年になると年に1回か2回、校外学舎に泊まりがけで行く行事があった。校外学舎というのは、読んで字のごとく学校外にある学舎、いわば別荘のようなものである。といっても、そんな立派な建物ではなく、プレハブ小屋に毛が生えた程度のものだったが、要は泊まりがけの遠足と思ってもらって間違いない。

 所在地は兵庫県川西市。能勢電鉄妙見口駅から徒歩15分ぐらいだったか。妙見山という東京でいえば高尾山みたいなポジションの山の麓にあり、自然豊かな環境だった。というか、自然豊かな環境だからこそ、都会っ子たちを泊まりがけで連れていくことに教育的意義があったのだろう。

 到着すると、最初にやるのが布団干しだ。たまにしか使われないため湿気ってカビくさくなった布団を、みんなで庭に運び出す。大変な作業のようだが、自分が寝る分の布団を運べば数は足りるわけで、さほど大変ではない。雑草だらけの地面に直で置いていたような気もするが、いくら昭和の衛生感覚でもゴザかブルーシートぐらいは敷いていたかも。とはいえ、たまに地面から這い出してきた大ミミズが布団の上をのたくっていることがあり、それはさすがに気持ち悪かった。ミミズのぬめりで汚れた布団をどうしたかは記憶にない。

 その後、妙見山に登って(ケーブルカーがあるので小学生でも登れる)、山上の広場かどこかで各自持参の弁当を食べる。普段は給食なので、弁当というだけでイベント感があった。ウチの小学校は校内調理だったので給食はそれなりにおいしかったが、こういうシチュエーションで食べる弁当は本来の味の2割増ぐらいには感じられる。

  そして何よりの楽しみは、おやつである。当時は「おやつは100円まで」だった。友達と一緒に駄菓子屋に繰り出して、真剣に吟味する。「オレこれ買うから、オマエそれ買うて半分こせえへん?」みたいな密約を結ぶのも楽しい。今考えれば、別に検査があるわけでもないので多少オーバーしてもバレやしないのに、きちんと限度額内に収めようとするのがいかにも小学生である。

 そのおやつ代は自分の小遣いから出していたのか、それとは別に親が出してくれたのか。学校行事ということで親が出してくれていた可能性が高いが、だとしたら全部使わず余らせた分を自分の小遣いにするという手もある。たかが数十円でも、小学生にとってはバカにならない。友達とのおやつ交換でも、いかに有利な取り引きをするかが大事。そういう意味では、今よりはるかに真剣に生きていた。

 校外学舎の周辺には小さな池もあり、そこでよくアカハライモリを捕って遊んだ。セミやカブトムシも普通に捕れた。今では夏の終わりのセミファイナル(死にかけのセミが突然ブブブブと暴れるやつ)にビクッと後ずさる体たらくだが、当時は生きたセミでキャッチボールしたりもした。何でも遊びにできるのが小学生男子というものだ。

 しかし、何事も楽しいばかりでは終わらない。日が沈み暗くなってくるにつれ、憂鬱な気分がふつふつと湧いてくる。ああ、またアレの時間がやってくる……。本当に嫌なんだけど、どうにかならないのかなあ……。 

次のページ別にいじめタイムとか勉強タイムとかがあるわけじゃない・・・

オススメ記事

新保信長

しんぼ のぶなが

流しの編集者&ライター

1964年大阪生まれ。東京大学文学部心理学科卒。流しの編集者&ライター。単行本やムックの編集・執筆を手がける。「南信長」名義でマンガ解説も。著書に『国歌斉唱♪――「君が代」と世界の国歌はどう違う?』『虎バカ本の世界』『字が汚い!』『声が通らない!』ほか。南信長名義では『現代マンガの冒険者たち』『マンガの食卓』『1979年の奇跡』など。新刊『漫画家の自画像』(左右社)が絶賛発売中です!

この著者の記事一覧