「受験後遺症」という最強の病
もう誰も尾崎豊を愛することができない
すべての問題は「受験があったから」にたどりつく
日本が殺気立っている。もうずっと前からだ。諦めの空気と八つ当たりのターゲットを探す殺伐とした空気を変な偽善的連帯感が覆っていて居心地が悪い。
あらゆる社会問題の原因を考えていくと、大抵は個々の「心の問題」とか「母親」とか「幼少期」なんかの定番の原因が出てきて、最後には必ずこいつが出てくる。「受験」だ。
思春期の柔らかい心を硬直させ、隣の人間たちをすべて「潜在的敵」に変える「受験」だ。
うーん、なんか80年代の青春ドラマみたいだな。でもそうなのだから仕方ない。
「僕らの七日間戦争」が終わっても、ゲバ棒持った「あしたのジョー」たちが北に旅立っても「受験」はなくならなかったのだ。そして「高学歴ならパンツを脱ぐ」バブル女の時代から、スーパーIT高校生の登場まで「なんとなく学歴は外せないかも」の時代が続いている。
「東大生なんかバカ」と言いながら東大OBが政治・経済・マスコミの背後を固めているのも変わらない。
この国は、ほぼ全員が「受験後遺症」だと僕は思う。
「受験」が作ってしまう「心」は健全には見えない。自分が受かれば誰かが落ちるのに、表向きは「みんな仲間」とかやらされるのだ。「創造性」とかを煽りながらテストの答えは決まっている。
その結果、ネットには「偽善」と「風紀委員」と「誤字警察」が溢れ、誰かを叩く時のフレーズには「低学歴乙」みたいな言葉が踊ってる。
この世には2種類の人間がいる
もうこの話は有史以前の話題みたいで書くのが嫌なんだけど、受験後遺症問題を語るには「わかりやすい事件」なんで書きます。「尾崎問題」です。
40代前半くらいの人たちが「ガラスの十代」だった頃にハートを直撃して伝説になった尾崎豊。
「15の夜」という曲で彼は、誰にも縛られたくないとバイクを盗んだり、「卒業」では、学校の窓ガラスを壊して回る、みたいな反社会的な歌詞をかましてティーンのカリスマとなったのはご存知の通り。
自意識過剰のヒーロー登場なのだけど、これは時代的に60年代からの反体制美学の流れにあって、いわゆる「ロックの王道」的な社会への抵抗で、むしろ正統派のロック・スターだった。
この「本気の和製スプリングスティーン」は「団塊ジュニア」少し前あたりの世代で猛烈に共感され神格化していく。
そして尾崎は「カリスマ尾崎」となり、彼に野暮な突っ込みを入れるのはタブーな空気になった。
ところが90年代の前半に僕はある漫画家のアシスタントに「盗んだバイクで走って浸ってんじゃねえよ」という突っ込みを聞いた。(彼はよくバイクを盗まれるらしいのだ)
これが僕にとって「15の夜ならバイクを盗んでいい」という尾崎イズムに初めて突っ込みが入った瞬間だったと思う。
マキタスポーツさんがこの「盗まれる側から見た15の夜」という歌を歌っていらしたけど、確かにこの世には「バイクを盗む人」と「バイクを盗まれる人」の2種類の人間がいるわけだ。