「受験後遺症」という最強の病
もう誰も尾崎豊を愛することができない
ルールを破る人が過剰に許せない人たちの登場
そんな「ルールを守らない人」を過剰なまでにバッシングしたがる人が、このあたりから増え始める。
「先生それ間違ってます」「それルール違反ですー」という「突っ込み学級委員」の数が増え始めるのだ。
マキタ氏はそれを「1億総突っ込みの時代」と指摘しているらしいけど、そうなった原因の一つに僕は「受験後遺症」があると思う。
幼児期からテストに正しい答えを出す事が至上の命題として育てられ、正しくない答えを出す事は最もダメなことだと擦り込まれている人たちに多い「正解原理主義者」さんたちだ。
おそらくネットで誰かを叩いている人のほとんどがこのタイプだろう。彼らの判断基準は「正しいか否か」だ。
「誰かが傷つくから」みたいな理由ですら「ある種の正解」とされているから言っているケースも多い。
ところが現実社会は何が正しいかなどの解答などなく、全ては暫定的で流動的だ。
ここに「正解原理主義者」が社会で生きるしんどさがあるだろう。漢字や計算の間違いなど、明らかな正解があるものがまちがっている時には声がでかくなるけど、何かアイデアない?と聞かれると声が小さくなるのがこのタイプだ。
漫画家として出会ってきた編集者には、こっちのイメージを引き出してくれるいわゆる「できる編集者」っていう人がいるのだけど、そういうクリエイティブな編集者に「誤字脱字」ばかり指摘してくる人は、ほぼいない。
僕は未だに漢字が苦手で中学生並みの間違いをするのもしょっちゅうなんだけど、彼らはそれをいちいち指摘しない。クリエイティブな物作りに「正解」は重要じゃないことを彼らは知っているのだと思う。
ロックがわからない若者のヤバさ
そもそもロックという文化はそういう怪しげな「正解」なるものに異議を唱えるものだった。「ミルクをこぼさないで」とうるさく言う大人に「うるせえ」と言ってきた文化だ。
そんなささやかな抵抗で、若者がこの理不尽な社会から自分を守ってきたのがロックの歴史だ。だから尾崎が理不尽な社会に反逆して、自分を押さえつける学校のガラスを割ってバイクを盗む気分は「いいなあ」と若い世代に共感されてきた。
なのに当の若者の中から「それっていけないことですよね」という、どシラフな突っ込みが入ったのだ。
80年代ならそれはギャグとされただろうけど、今は本気でそれを主張する「風紀委員」が溢れている。
若いのに反逆の牙を抜かれて「正論」などを言ってしまうのだ。
実はこれは社会を膠着させる危険をはらんでいる深刻な問題だろう。「バカが言えない人は本物のバカだ」と言うけれど、ネットにはそんな「本物のバカ」が溢れているように見える。
ちなみに僕は尾崎豊とか中原中也とかボードレールとかブルーハーツなんかは、むしろ「自意識過剰文学」として価値があるもので、思春期の「どうしようもない気分」を時代を超えて救済してくれる貴重なコンテンツだと思っている。
この仲間にはおそらく太宰治も三島由紀夫も寺山修二も入るんじゃないかとも思う。太宰もチェーホフも見事な中2病を患っててかっこいい。