「受験後遺症」という最強の病
もう誰も尾崎豊を愛することができない
尾崎豊はバブル世代
今思うと尾崎の現れた80年代は「不良が偉い時代」で、「大人」という「わかってないやつら」対「純粋な心の若者」が戦っていた時代だった。
バイクなんか盗んでいいくらい「ピュアな15歳の想い」には価値があったわけだ。80年代は60年代の学生運動が70年代の「旅と同棲の自分探し期」を経て、ミニマムな「大人」対「子供」という局地戦になっていた時代でもあった。若者達にとっての価値は「ルール」より「想い」だし、「道交法」より「バリバリ伝説」だった。
つまり「社会」より「個人」の時代でもあったわけで、だからこそアムロはガンダムに乗るのを嫌がったりもするのだ。
ところで尾崎時代はバブル期とも重なっている。
その時代の空気は一言で言って「楽観的」で「子供っぽい」ものだった。ネアカとネクラという強引な二極化で「暗いやつ」はダメな奴とされ、株で狂乱する大人だけでなく、みんながどこか浮かれていた。
おニャン子(尾崎)世代の「バナナマン」さんや土田晃之さんあたりの世代の芸人さんが持っている「なんとなく楽天的な感性」はまさにその時代にあった気分を現している。
つまりその時代にはまだ「誰もが夢見る資格がある空気」が残っていたのだ。それが「尾崎の時代」だったわけだ。
その角度で見るとバブル崩壊の90年代中期になって「人のバイク盗んで浸ってんじゃねえよ」となるのもうなずける。自分にうっとりしてる場合ではなくなったのだ。
ヤバイのは「いい子」
とはいえ貧困の時代にロックはなかったかというとそんなことはなく、貧しい時ほど体制への抵抗運動は盛り上がるはずだ。
なのにこの国では逆に「いい子」が増えていき、そんな「いい子」がオウム的なものと合流してテロを起こすような流れになっていく。「いい子」がイジメ。「いい子」が自殺。「いい子」がテロ。という時代になるのだ。
この話の背後にはどうも「お受験ママ」の存在がちらつくのだけど、ロックのような健全なガス抜きができないメンタリティの登場はどうにも「ヤバい」気がする。
僕はこの盗んだバイクで走りだす陶酔を許せない人種の登場がこの先のいわいる「中2バッシング」「夢とか語る奴バッシング」などの始まりだと思う。
そして尾崎チルドレンの後にはそれまでとは違う破滅的で暴力的な「団塊ジュニア」が現れ、その後の「ロスジェネ」「氷河期」「エヴァ」などと言われる「絶望デフォルト世代」へと殺伐とした世代になっていく。
ところで「自意識問題」はエヴァ世代に至って激しくこじれていくし、「夢という何か」が妙な肥大をしていく流れがまた面白い。
そしてこの「いい子」はやがて反抗するエネルギーすら奪われ「鬱」や「メンヘラ」の日常化に繋がっていく。荒れる90年代、暴れることに疲れた0年代を経てもまだ希望は見えない。
「受験で勝てばなんとかなる」なんてのはおかしい、という問題を放置したまま、大切な思春期を諦めと思考停止にする教育は何も変わらなかった。
これは受験ストレスの当事者が大人になってしまうと「当事者」ではなくなってしまうことも一因だろう。自分はもう受験からは解放されているので、この問題を考える事がなくなってしまうのだ。
こうして「受験後遺症」から生まれる国民的な心の病は現代に引き継がれていく。
そして受験体験で作られた「いびつな魂」を抱えた大人達が支配階級を占め、問題だらけの仕組みを拡大、維持、継続させているのが、この国の病を生む問題の「核」なのだと思う。