『孫子』で読み解く、真田昌幸と幸村
信玄の弟子たちの争い――徳川家康と真田幸村!!
「関ヶ原合戦」の時、伊達軍の鉄砲装備率は兵3千人のうち1200人、上杉家ですらも兵7800人のうち2千人にも鉄砲が装備されていたとされています。真田氏も鉄砲そのものは大量に保有していました。
しかし「長篠合戦」で織田・徳川連合軍の鉄砲隊に破られた武田家の家臣筋の幸村は、なぜ信玄が鉄砲を野戦用武器として使わなかったかをよく理解していました。
野戦での鉄砲の効果は一斉射撃だけで、抜刀突撃の方が戦局を左右するものなのです。
大坂城への籠城ができなかったことから、大坂側の武将は外に打って出たのですが、その中で真田幸村は3500人を率いて、徳川側の松平忠直(ただなお)隊1万5千人に突撃をかけました。
この時に幸村は鉄砲を捨て、鑓と抜刀を主軸に戦います。
接近戦になることで鉄砲装備率50パーセント近い徳川側を追い散らし、家康本陣にまで襲いかかり、家康も一時は死を覚悟したといいます。
結局は、絶対数の不足から幸村は敗れますが、武田信玄にあこがれ、強力な三河兵を中核とした徳川軍でさえも、この有様であったのです。
このように万能の巨人・武田信玄の残した遺産は、各弟子たちの特性に応じて、いくつにも分かれながらも脈々と流れていったのです。
ワニ歴史文庫『孫子の盲点』より