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柴田勝家の長っ尻(ちり)

季節と時節でつづる戦国おりおり 第241回

 今から434年前の天正10年6月2日(現在の暦で1582年6月21日)、本能寺の変起こる。という事で、京都でのレポートの最後は、この展示のご案内を。

 現在、京都市中京区の本能寺では「大信長展」を開催中。織田信長だけでなく武田信玄・上杉謙信・毛利元就・細川幽斎・豊臣秀吉・徳川家康・千利休らをはじめとする同時代を生きた人々の書状やゆかりの品も集められ、充実した内容です。 

 

 筆者がこの展示を見学しに行ったお目当ては、柴田勝家の書状2通。4年前に紹介されたものですが、筆者は現物初見です。

 現物は小さいですね、書いてある文字も爪の先の様に細かいです。何でも密書の様にあえて小さくし、使者が携行する際に手のひらに収まる様にしたのではないかとの事。

それはどういう事かと申しますと、この書状が作成されたタイミングが鍵なのです。天正10年(1582)6月10日と、13日以降?。

 そう、本能寺の変直後。
 10日付けの書状に曰く、
「(越中の侵攻戦は)完全に目的を達成したところだったが、今回の事(本能寺の変)が起こったので越中に佐々成政、能登に前田利家を残して9日に越前北庄に帰り着いた」。

 そして13日?の書状には
「越中魚津城は3日に攻め落とし、その後宮崎城攻めに軍勢を進めたが、5日の夜に敵は退却した。その後は要所々々の城の敵も退散したが、6日に変の勃発を知った。9日に北庄に帰着し、10日に諸方との連絡をとった」。

 従来勝家が主君・織田信長の変による死を知ったのは6月4日だと言われていました。その根拠は、おそらく『前田家譜』に
「六月四日、飛檄京師より至り、曰く、織田父子、明智光秀の為に弑せられ、上国(畿内)大いに乱ると」
 とあるところからだっただと思います。

 ところが、実際には6日。『上杉家御年譜』によれば、越中の上杉関係者に変の情報が伝わったのは7日とありますから、その前の日に勝家が知ったというのは自然だと思います。

 羽柴(豊臣)秀吉が備中高松城攻めの陣中で変の情報を受け取ったのは3日深夜か4日未明ですから、この時点で2日以上の差が発生しているんですね。

 秀吉が高松城から全軍を反転させたのは6日説が主流で、その夜岡山城の東の沼城まで行き着き、翌日沼城から姫路まで70kmを1日で駆けたというのが有名な「中国大返し」のハイライトなわけですが、ただ、その秀吉も姫路城で1日を休息と情報収集に費やし、9日に出立した後12日に摂津富田に着陣するには4日をかけています。

 それでも勝家が本拠の北庄に居座ったままで状況を確認しようとしているのに対し、前進しながら次々と手を打っているのは間違いなく、この点が2人の運命を決定づけました。勝家も何はともあれ前進し、せめて近江まで進んで光秀を背後から脅かす姿勢を13日山崎の戦いの時に示せていれば、その後の清洲会議の内容も大きく変わったのでしょうが。

 本能寺の「大信長展」は、8月31日まで開催されています。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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