水の都「江戸」の誕生
徳川将軍家3代、半世紀にわたる国家プロジェクト
拡大を続ける東京のウォーターフロント化は、江戸時代初期にはすでに始まっていた。江戸が世界有数の大都市へと飛躍した背景には、徳川幕府の綿密な都市計画があった。東京五輪を前に知っておきたい、東京が首都として発展した歴史的な背景と、現代も見られる江戸の名残を紹介する。
江戸開発にかかわる大工事は、家康の没後も3代将軍家光まで、約半世紀にわたって続けられた。江戸城を中心に防備を固めながら、水路を利用した交通網を整備していった。
治水工事について言えば、水害対策と水道整備も忘れてはならない。前者の代表例は「利根川東遷」である。江戸時代以前には、大河川の利根川下流に位置していた江戸は、大雨によってたびたび洪水に見舞われた。そこで大規模な土木工事を行い、現在のように銚子方面へとつけかえたのだ。
水道整備に関しては、埋立地であり井戸を掘ることができない江戸では急務とされた。そのため、神田上水をはじめとする「江戸の六上水」が敷設された。わずかな傾斜を設けるだけで、なだらかな関東平野を多摩から江戸まで数十キロも水を通すという、驚くべきテクノロジーが用いられたのだが、それまでの天下普請で培った土木技術のたまものといえる。現在、玉川上水の下流に位置する西新宿に東京都水道局があるのも、江戸の名残といえる。
●キーワード【朱引線】
江戸時代中期の1818年、幕府は地図上に朱線を引いて「御府内」と定めた。これが公式の江戸の範囲とされ、中川(荒川)、四宿場町(板橋・内藤新宿・品川・千住)までが含まれた。