「幼稚園児が名前を呼ばれても無反応」って、それどういうこと? 〝自分を最優先している親の姿〟を子は真似る【西岡正樹】
子どもはいま「迷い子」状態 〜個を最優先させる社会と公教育の矛盾〜
■子どもたちの声はお母さんたちに届かなかった
「10兆円あったら日本の全国民の教育費が無償化できるんですよ。教育国債を発行すればいいんです」
元市長の言葉は、聞きなれない関西弁だからなのか、いつ聞いても勢いを感じる。また、違うSNSの動画では、声高に叫ぶ野党党首の声がする。
「今の国家教育予算に5兆円上乗せすれば、子どもたちが大学院生になるまで、教育費無償化ができるんです」
景気のいい話を聞きながら、「本当にやってくれたらこんなに嬉しいことはないけど、今の日本の教育の根本的な問題は、そこだけではないんだよ」そんな声を二人にかけたくなる。
私は、今年の3月まで茅ケ崎市(人口24万人の街)で教師をしていたので、その1地方都市の教師や子どもたち、そして保護者の様子からしか語ることはできないが、ここ数年間、教育現場にいながらにして思い続けているのは、日本の公立小学校はこのままでは存在感を失うのではないかということだ。
数年ぶりに教え子M夫婦と会った。昨年度まで鎌倉の幼稚園に勤めていたMが言うには、自分が勤めていた幼稚園には、名前を呼ばれても返事をしない幼稚園児がたくさんいる、というのだ。
「それどういうこと?」
巷の小学校の1年生と同じだなと少々思いながら訊いてはみたものの
「その子に用事があって名前を呼んでも、自分がやっていることを優先して何の反応もないの。返事をしないどころか振り向きもしないよ」
続けてそんな話を聞いても、「どうなっているんだ」という思いと共に「そんなことは特別な子だろう」という思いが湧いてくる。
「子どもにはMの声が聞こえているの?」
「聞こえているんだろうけど、全く無反応。最初は本当にびっくりした。」
Mがさらに言葉を続け、そのような態度を見せる子が一人や二人ではない、というから驚いたのだが、日本の教育現場は小学校の1年生が返事をしないからと言って驚くに足りぬ、ということなのか。
Mの話から、とある場面が浮かんできた。
私はカフェで原稿を書くことがある。平日の日中は、幼児を連れたお母さんたちが集まっている時があるのだが、その中で時折聴こえてくるのは、止めどなく続くお母さんたちの話し声と、お母さんたちの声に被さる様に聴こえてくる「ウニャー」「イーヤー」などなどの甲高い子ども(幼児)の奇声だ。ところが、このような時、子どもたちの奇声がどんなに大きくなろうとも、お母さんたちの声が止まることはない(ほとんど)。
子どもたちが、どんなに大きな声を出しても、「構ってほしい」と訴え続けても、その声はお母さんには届かないのだ。お母さんは自分の目の前にいるのにもかかわらず、自分の声がお母さんに届かない「言葉にならない虚しさ」を、子どもたちはずっと抱き続けているにちがいない。