世界最大の墳墓・大仙陵とは?
大仙陵はいかにして造られたのか? 第1回
■墳丘の長さは当時500m以上! 大王が築造した巨大築造物
3世紀の中頃、古墳時代の開始とともに古墳はどんどん大きくなり、5世紀には頂点を迎える。その最盛期に築造されたのが日本最大の前方後円墳、大仙陵(だいせんりょう)である。大阪府堺市に存在し、周囲の古墳と共に百舌鳥(もず)古墳群を構成。宮内庁により仁徳(にんとく)天皇の陵墓とされている。
この大仙陵は大阪湾を望む台地上に他の多くの古墳と共に築造された。内濠の墳丘長は現在の水面で測れば486mだが、本来は500mを超えていたともいわれる。周囲からの高さは35m程度あり、海上へもその威容を誇りその機能を果たしたであろう。これほど巨大なものが造られたということは、それだけ力のあるものが統治していたということが一目瞭然である。平面的には三重の濠が巡り、周囲には多くの陪塚(ばいづか)(大きな古墳の側に造られた小さな古墳)を従えている点も他に例を見ない。
築造に費やした労力も半端ではなかった。ある試算によれば、1日最大で2000人が従事して15年8カ月かかるという。ただ、設定された条件からみて、さらに多くの労力、期間を要したことは間違いない。また、古墳築造を農繁期に行うことは非合理的であり、築造を農閑期に限ったとすれば、単純に考えても倍の31年4カ月かかることになる。
また、後円部頂には石棺(せっかん)の蓋石(ふたいし)があったとの江戸時代の記述があるほか、明治5年には前方部で石槨(せきかく)(石で造られた、棺を入れる施設)と石棺(石で造られた遺骸を収める棺)が発見され、金銅製の甲冑が出土した。主たる埋葬施設ではない前方部の埋葬施設に他に例のない超高級品の金銅製甲冑が納められていることは、破格の墳丘規模とも相俟ってこの古墳の被葬者の特別な地位を示唆している。
この時代には海外との交易で得た鉄で各種道具を製作し、それを使用して農地の拡大などが行われ、生産力が拡大した。また各種資源、モノ、技術、人が国内に移入した時期でもある。全国各地に拡がる墳墓築造は、このような経済的な発展と安定があって初めて実現したことであり、総体的には明治維新に匹敵する、あるいはそれを超える程の変革の時代であったといえよう。
なお、地元の堺市は大仙陵を含む百舌鳥古墳群を大阪府、羽曳野(はびきの)市、藤井寺市と共同して、古市(ふるいち)古墳群と共に世界遺産への登録をめざしている。
《大仙陵はいかにして造られたのか? 第2回へつづく》