日本を代表する海の民が山中深く分け入ったわけ!?
謎の一族、信濃の安曇氏
謎の一族、信濃の安曇氏!!
最近気になって仕方ないのは、九州と信濃の安曇(阿曇)(あずみ)氏だ。
邪馬台国(やまたいこく)が登場する直前まで、北部九州の中心的存在は奴国(なこく)(福岡市)だったが、安曇氏はその奴国を拠点にし、玄界灘(げんかいなだ)を股にかけて朝鮮半島にも渡っていた海の民だ。
たとえば『後漢書(ごかんじょ)』東夷伝(とういでん)には、一世紀の半ば、倭の奴国(なこく)が後漢に朝貢(ちょうこう)したこと、光武帝(こうぶてい)が冊封(さくほう)し、金印を授与したとある。この金印こそ、教科書にも載る「志賀島(しかのしま)の金印」だ。
ヤマト建国の直前まで、「倭人を代表する集団」を束ねていたのが安曇氏の祖であろう。
日本列島でもっとも富を蓄え、強大な発言力を有していたはずなのだ。
ところが、ヤマト建国後、安曇氏は歴史の大舞台にほとんど登場していない。
白村江(はくすきのえ)の戦い(六六三年)で安曇比羅夫(ひらぶ)が登場するぐらいだろうか。いったい彼らはどこに消えてしまったのだろう。もしかつて信じられていたように、邪馬台国が東遷(とうせん)してヤマトになったのなら、安曇氏の末裔はもっと中央で活躍していたはずではないか。
それでなくとも、弥生時代の「倭を代表する奴国」の末裔の活躍がそのあと見られないというのも不思議なことだ。
その一方で、安曇氏は、方々に散らばって足跡を残している。「渥美(あつみ)」や「熱海(あたみ)」も、安曇氏と関わりがあるらしい。「志賀島(福岡市)」が安曇氏の発祥の地だが、「滋賀県」も「志賀」と関わりがありそうだ。滋賀県の琵琶湖には安曇川が流れこむ。
水辺だけではない。山中にも深く分け入っている。それが、観光地として知られる安曇野(長野県安曇野市)だ。街の中心部に鎮座するのが穂高(ほたか)神社で、安曇氏の祖神を祀っている。奥宮(おくみや)は上高地(かみこうち)の明神池(みょうじんいけ)で、さらに標高三一九〇メートルの奥穂高岳の山頂に嶺宮(みねみや)が祀られている。
日本を代表する海の民が、各地の海岸地帯に移住していったという話は、当然のことと思う。ではなぜ、山中深く分け入ったのだろう。
いくつも理由があると思う。
まず、海の民は「まっすぐ伸びた巨木」を求めていたということだ。もちろん、木を刳(く)り抜いて船(丸木舟)を造るためだ。また、海の民は山を目印に航海をした(山アテ)ので、山の神を大切に祀ってきた。さらに、七世紀まで大切な神宝として守られ、朝鮮半島にも輸出された硬玉(こうぎょく)ヒスイの産地(新潟県糸魚川(いといがわ)市)を支配する目的があったのかもしれない。