「統一教会問題」と「ホスト問題」の共通点 〝キモイもの〟を感情的に例外扱いしていいのか?【仲正昌樹】
後者は、自分が無力だった幼児の時代を想起させる状態に起因する、という。他の人には普通にできることをできない時、自分が社会的に弱い立場にあると実感する時、恥ずかしいと感じるのはそのためだ。
ヌスバウムは両者を区別して記述しているが、双方がからまり合って相乗効果が生じる場合もあるのではないか、と考える。自分自身のみっともないところ、理性的に振る舞うことができず、身体的な欠陥や精神的脆弱性が露呈する時、恥ずかしいという気持ちが、自己嫌悪にも通じる。そして自分以上に、そうした性質を示している存在を見ると、強い嫌悪感を覚える。恥ずかしいことをやっている人間を見て、同じ人間として――あるいは同じ日本人とか、同じ〇〇として――恥ずかしいと感じるメカニズムは、それで説明できる。
統一教会に対する嫌悪感も、統一教会がやっていることの内に自分の弱さを見てしまうことに起因するのかもしれない。人生の方向性に不安で、人生の全てを決めてくれる存在に全てを委ねたくなりそうな、理屈抜きに盲従してしまいそうな自分を見せつけられるような嫌悪感。合同結婚という形で、結婚まで含めて全人生を教祖に委ねてしまうように見える、統一教会は、その最たる例であろう。そこに、自分が(自分が内心差別している)韓国人以下の存在であるかもしれないという不安、植民地支配に対する罪の歴史ゆえに、韓国人に対して頭があがらなくなっていることへの屈辱感も加わっているかもしれない。
一度好きになってしまった相手のいいなりになり、本気で愛されていないと分かっていながら、貢いでしまいそうな、性的欲求で我を忘れてしまいそうな自分を、ホスト―顧客の関係に見てしまう人は、
元信者が「私はマインド・コントロールされていた」と訴え、ホストの顧客だった女性が、自分は騙されていた、という主張するのは、自分が――理性で自分の利益について判断できない――弱さを見せてしまったことを、ストレートに認めることができず、それが自分の人間としての本来の状態ではない、と思いたいからかもしれない。愚かな判断をしたのは、今と同じ「自分」である、と認めたくないのである。