「統一教会問題」と「ホスト問題」の共通点 〝キモイもの〟を感情的に例外扱いしていいのか?【仲正昌樹】
ヌスバウムは、ピルグリム・ファーザーズの時代以来のアメリカの歴史における宗教迫害の問題を論じた『良心の自由』(二〇〇八)では、宗教迫害を逃れて新天地にやってきた人たちが、自分たちが様々な苦労を経てメジャーになったと思い始めると、次第に排他的になり、自分たちと異なる教えやそれに基づく習慣を持った人たちに嫌悪感を覚え、いろいろな理由を付けて迫害するようになるということが繰り返されたことを強調している。白人のメインストリームの宗派が、ネイティヴ・アメリカンやカリブ海の住民の宗教を、自分たちのそれと対等とはなかなか認めようとしなかったこと、一九世紀の後半に、カトリック系移民が増えた時、彼らを影で操るローマ法王庁の陰謀説に踊らされたこと、学校教育の現場でのエホバの証人やモルモン教の生徒の振る舞いに過剰反応することなど。
こうした態度は、彼らの嫌悪感=恥辱に起因するものと見ることができる。かつての自分たちのように脆弱で、非理性的に振る舞っているように見える存在に耐えられないのである。因みに、私は最近、プロテスタントの牧師たちの前で講演する機会があったので、この『良心の自由』を引き合いに出して、あなたたちも同じようなことをしていないか、と示唆したところ、ちゃんと聞いてくれた人もいたが、落ち着いて話を聞いていられず、ざわざわしていた人たちもいる。
「リベラル」であるという自負を持つ人は、自分が嫌悪感に動かされて、いろんな例外を正当化していないか、自問すべきではないか。
文:仲正昌樹