「エロス」と「聖なるもの」で蕩尽するのが人間ではないのか 〜「ホスト問題」と「統一教会問題」の三つ目の共通点【仲正昌樹】
祝祭に際しては、普段は人々の目から隠されている「聖なるもの」が姿を現わすとされる。「聖なるもの」は、それに触れた人を驚愕させると同時に、強く惹きつけ、正気を失わせるので、畏怖され、通常は、一般の住民がアクセスできないところに封印されている。封印を解いて現れた「聖なるもの」に対し、人間や家畜など多くの犠牲が捧げられ、その偉大さを讃えるため貴重な財物が破壊される。「聖なるもの」に囚われた人々は、普段のあらゆる制約から外れ、狂乱状態に陥る。そこでは、いかなる利益ももたらさない、生産に繋がらない、純粋な「消費」が成される。それが、「蕩尽」だ。
バタイユ=栗本によると、西欧近代社会は、全員が参加する本格的な祝祭を行わなくなり、そのため溜まった欲求を「蕩尽」することが少なくなり、人々は更なる蓄積のための生産へと駆り立てられ続け、無意識下に抑圧された欲求が増え続ける。それが急に噴出すると、金属バット殺人事件のような理解しにくい現象が起こる。いくら受験勉強で追い込まれたからといって、どうして、自分を養ってくれる両親をいきなり殺してしまうのか。殺人犯になって人生を台無しにするより、入試に落ちて両親にひどく叱責されるほうがましではないのか? バタイユの理論に即して考えれば、今まで溜めてきたものを破壊して、解放されたいという「蕩尽」への欲求が、将来に配慮しようとする理性的思考による制止を振り切って、暴走してしまうから、ということになろう。
近代化・分業化が進んだ社会で「蕩尽」のための主要な回路を提供するのが、宗教とエロティシズムと芸術である。この場合の「エロティシズム」というのは、単なる動物と同じ様な性行為ということではなく、性に関わる様々な想像や表象を含んでおり、人間特有の現象である。動物は、少なくとも現在知られている限り、性的妄想を抱くことはない。芸術は、一定の形式に即した創造活動なので、多くの人は出来上がったものを鑑賞するという間接的な形でしか参加できないが、宗教とエロティシズムは普通の人でも直接実行でき、分かりやすい形で「蕩尽」が行われることが多い。
禁欲的なイメージのある宗教と、欲求を解放するイメージのあるエロティシズムは対極にあるように思えるが、バタイユは、神秘的な合一や恍惚状態の体験をする人が、しばしば自分の体験を、単なる神への愛というよりは、エロティックなニュアンスの強い言葉で表現したり、信仰の対象となる神が性器の姿をしていたり、神を慕う信仰者の表情がエロティックに見えるよう、絵画や彫刻に描かれることもあることを指摘している。宗教は一面では厳しく欲求を抑圧するが、別の面では、むしろ神や自然、天などに対する、あるいは信者相互でのエロティックな欲求を全開させる。