「エロス」と「聖なるもの」で蕩尽するのが人間ではないのか 〜「ホスト問題」と「統一教会問題」の三つ目の共通点【仲正昌樹】
個人に取りついて、いつの間にか合理性のたがから逸脱させてしまう宗教とエロティシズムは、恐怖を感じさせると同時に魅惑する「聖なるもの」から派生した、と言うことができる。エロティシズムと宗教が深いところで繋がっており、その繋がりがいくつもの有名な芸術作品が表現されていると言われても、さほど意外に思わない人も少なくないだろうが、バタイユは、そうした認識が広がるのに大きく貢献した思想家だ。
自分が信仰する宗教のために、布教や修業をし、献金しても、何の見返りもない。本人たちは、自分たちの魂の救いとか霊的な上昇といった“見返り”があると言うけれど、労働してその対価を受け取る日常に埋没している人にとっては、無駄なことをしているとしか思えない。物質的な利益が返って来ないのだから。
風俗、特に、女性を非現実的な仕方でほめあげ、幻想的な気分にさせることで高額な料金を取るホストのような業態は、エロティシズムを最大限に利用していると言える。それによってホストが自分の本当の恋人になるわけではないと分かっているのに、どうしてエロティックな幻想のために高額の金を払うのか、欲求充足にはそれなりの相場があると考えている人間には理解しがたい。
いずれも、生産体制の中にきちんと組み込まれて生活している人間にとっては、壮大な無駄な消費=「蕩尽」を行なっていながら、本人たちは――少なくとも、“被害者”になる前は――喜びを覚えているように見える。人間としてあり得ない行為である。バタイユであれば、生産体制を維持・拡張し、生き延びようとする合理的な思考、生産の成果を台無しにする非合理性への衝動の両面を備えているのが、人間だ、と言うだろう。合理性だけで発展し続けた社会などない。ソ連のような社会主義国家は、それを成し遂げようとした。バタイユはソ連が崩壊するずっと前に亡くなっているが、労働を厳重に管理して、無限の蓄積を可能にすることを試みるソ連のシステムが、個人が蕩尽する自由を許容する資本主義国家のそれよりも遥かに無理をしていることを指摘していた。
無論、統一教会のようなやり方で、信者にリターンなしの奉仕を求める(=信者にとっての蕩尽)と同時に、メシアによる祝福によって真の家庭を築きたいという、ある意味エロティシズム的な欲求を掻き立てるのが、生産と蕩尽のバランスの取れた組み合わせと言えるのか、その存在が既存の社会にとってプラスになるのか、少なくとも、許容可能なのか、というのは別問題である。ちゃんと検証する必要がある。ホストについても同様である。いずれの場合も、負の効果が、社会全体を崩壊させかねないほど大きくなっていく恐れがあるのなら、規制することは必要だ。しかし、今の日本の世論では、人間本性や社会・経済システムという観点からちゃんと検証されることなどなく、「こんなキモイものダメに決まっているだろ!」、と決め付けられている。