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江戸の名残は各所に点在する

東京に残る江戸の面影

拡大を続ける東京のウォーターフロント化は、江戸時代初期にはすでに始まっていた。江戸が世界有数の大都市へと飛躍した背景には、徳川幕府の綿密な都市計画があった。東京五輪を前に知っておきたい、東京が首都として発展した歴史的な背景と、現代も見られる江戸の名残を紹介する。

 

 江戸の大半を占めた大名地の多くは、明治以後に売却されている。現代の公官庁や大使館が建ち並ぶエリアも、かつての大名地だ。小石川後楽園や六義園など公園として残っている大名庭園はほんのわずかで、千駄ヶ谷の徳川邸にしても、1964年の東京オリンピック時に国立競技場へと姿を変えている。広大な敷地を必要とする公的施設を造る上で、売却された大名地を利用することは効率的だったのだろう。

 首都高速道路の環状線も、江戸城の濠を巧みに利用している。東京オリンピックが決定した当時、わずか5年以内に開通を実現するため、苦肉の策が講じられたのだろう。江戸の水路が、東京の交通網の動脈として受け継がれているのは必然とも言える。

 また、番士が多く住んだ「番町」や麹職人が多かった「麹町」など、江戸の名残を留める地名も少なくない。東京の今に、江戸の昔を思い浮かべながら散策してみるのも面白いだろう。

 

本郷

今では東京大学の代名詞となっている「赤門」は、江戸時代後期の1827年に作られた。正式名称は「旧加賀屋敷御守殿門」であり、本郷キャンパスの敷地にかつてあった加賀藩前田家上屋敷の朱塗りの正門だった。

 

江戸~東京 略年表

11世紀頃             現在の皇居付近に江戸氏の居館が築かれる。

1457年(長禄元)            江戸氏の居館跡に太田道灌が江戸城を築く。

1524年(大永4)             江戸城が後北条氏の支城となる。

1590年(天正18)           徳川家康が関東へ移封、江戸を拠点とする。

 徳川(将軍家)による江戸の大規模な普請(土木工事)が開始。

 第一段階(1590~92年)            日比谷入江に注ぎ込む平川・小石川をつけかえ。

 第二段階(1606~07年)            日比谷入江の埋め立て。本丸、二の丸、北の丸の石垣工事。

 第三段階(1612~35年)            隅田川へ合流する神田川放水路を築造。深川、佃島の造成。

 第四段階(1636年頃)  西側の外堀が完成。

1653年(承応2)             玉川上水が開通。

1657年(明暦3)             明暦の大火。江戸城本丸天守が焼け落ちる。

1659年(万治2)             両国橋が架けられる。

18世紀初頭         江戸の人口が100万人を超える。

1818年(文政元)            幕府が御府内(江戸の範囲)を定める。

1868年(明治元)            江戸が東京へと改称、明治天皇が入城。

1923年(大正12)           関東大震災で江戸時代以来の町並みが一変。

1945年(昭和20)           東京大空襲。太平洋戦争に敗戦。

1964年(昭和39)           東京オリンピック開催。前後して、首都高速、東海道新幹線が開通。

1980年代            ウォーターフロント再開発がブームに。

 

 

 

 

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