「ナチス」について少しでもポジティヴなことを語れば、いきなり異端審問されても文句は言えないのか【仲正昌樹】
このように言うと、「お前はブックレットを読まないで批判している。ナチスがやることが全て悪だとは言っていない」と騒ぎ出す連中がいる。「ナチスは「良いこと」もしたのか?」というタイトルは明らかに全否定を示唆しているし、著者の一人の田野大輔君――彼が若手で、あんな尊大ではなかった時代を知っているので、こう呼ぶ――の信奉者たちは、そういう態度を取っている。ブックレットが異端審問の金科玉条になっており、彼自身がそれを煽っているふしがあることが問題なのだが、彼の信奉者がしつこいので、該当箇所を引用しておく。ブックレ
「現代社会においては、ナチスには良くも悪くも『悪の極北』のような位置付けが与えられている。ナチスは『私たちはこうあってはならない』という『絶対悪』であり、そのことを相互確認し合うことが社会の『歯止め』として機能しているのである」
ナチスに対する批判が「社会の歯止め」であるというのであれば、私も同意するが、「絶対悪」とはどういう意味であろう。悪いことしかしない、善は一切やらない、ということではないのか。彼らはそんな深い哲学的意味で言っているわけではなく、気構えとして“絶対悪と思う”という程度のつもりで言っているのかもしれないが、肝心なところで、そういう曖昧な言葉使いをする感覚は私には受け入れがたいし、教祖様が「絶対悪」と言っているのに、それを無視して、そんなことはおっしゃってないと強弁する信者たちはどうかしている。「ナチスは良いことを一つでもしたか」を検証すると表明しておきながら、「絶対悪」がどういうものなのか明らかにしないのはダメだろう。
「絶対悪」は哲学的過ぎて定義できないというのなら、肝心なところで、こんな宗教じみた言葉を出すべきではないし、少なくとも、自分たちが何をもって「善/悪」を判定しているのかを最初に明らかにすべきだが、このブックレットのどこにも判定基準は示されていない。
五頁では以下のように述べている。
「善悪を持ち込まず、どのような時代にも適用できる無色透明な尺度によって、あたかも『神』の視点から超越的に叙述することが歴史学の使命だと誤解している向きは多い。端的に言ってそれは間違いだし、そもそも不可能である」
その通りであるが、逆に、開き直って、勧善懲悪の判定をする歴史書も普通はないだろう。歴史家の価値観が記述に反映するのは致し方ないことだが、まともな歴史家なら、価値判断を前面に出すのなら、自分の判定基準を最初に示すはずだ。ましてや、ナチスが「良いことをした」という見解を全否定しようというのだから、自分の「善/悪」の判定基準を誤解のないよう、最初にはっきり示すべきだ。でないと、何を証明する本なのか分からなくなる。彼の信奉者たちはこの点を一切に気にしていない。