「ナチス」について少しでもポジティヴなことを語れば、いきなり異端審問されても文句は言えないのか【仲正昌樹】
第四章~第八章にかけての、よく知られたナチスの政策の評価をまとめた部分についてはさほど違和感はない。従来から言われていること、歴史の教科書類に書かれていることをまとめ、比較的ナチス政権に対して厳し目の意見を強調する形で参照しているだけだからである。しかし、ナチスの政策がプラスなのかマイナスか判定する尺度はどこにも示されていない。ナチスの功績とされるものには、これだけ負の面があると指摘されているよ、と示唆しているにすぎない。基準の取りようによっては、「良いこともやった」と言えそうな記述さえある。例えば、四六頁では、アウトバーン建設の経済効果について、「効果は限定的だったと判断するのが妥当だろう」と述べられているが、これは「良いことをしなかった」もしくは、むしろ「悪いことをした」ということなのだろうか。だったら、どれくらいの「効果」があったら、「良いことをした」ことになるのか、正解は何か、という疑問が出てくる。
私がこういう疑問を呈示すると、信者たちは、「答えは出ている。お前はレベルが低い」と騒ぐ。この人たちはどういう教育を受けてきたのか、と思う。
アウトバーンの雇用効果の正解は、経済学のプロに聞いても得られないであろう。いろんな前提条件があるので、はっきりした答えを出すのは無理だろう。それを素直に認めて、ポジティヴな面もあると言っている人と、焦点を絞って議論すればいいのである。「答えは示された。お前は遅れている。黙れ!」、というのはおかしい。
先ほど述べたように、歴史の叙述に、「善/悪」という概念を開き直るような形で持ち込むのは論外だが、どうしても「善/悪」について語りたいなら、対象を絞り込む必要がある。「ナチス」とは具体的に誰か、党か国家か。党の場合、一般党員やヒトラーに反逆した人まで含むのか、国家の場合、一般国民や公務員まで含むのか。あるいは、ヒトラー個人や幹部だけを指すのか。幹部という場合、どこまで含まれるか。
どの範囲(分野と時期)、どの側面(倫理的な視点、経済効率的視点、政治的視点、エコロジー的視点)、誰にとってかも、特定しないと意味がない。少なくとも、ナチスの国家運営には、ブックレットに扱われている以外にも、金融や司法、治安、国防、治水土木などの分野がある。「経済」に関係するあらゆる政策を「経済政索」と一つにまとめて、一九頁で全て語ったことにするのは乱暴すぎないか。いずれのポイントについても、◇◇には経済効果があったと言われているが、それは〇〇したおかげであり、それには△△の副作用が伴ったというような書き方になっている。正解は何なのかが示されていないので、「良いことはしていない」と証明されたとは思えない。
信者たちは、そんなのは難癖だ、そんな細かいこと言わなくても大体分かる、というのだろうが、その“大体”を根拠に、違う見方をする人を「ナチス肯定者」として責めるのだから、どうかしている。