「ナチス」について少しでもポジティヴなことを語れば、いきなり異端審問されても文句は言えないのか【仲正昌樹】
「良い」という言葉を強引に定義すれば、「ナチス」は絶対に誰にとっても「良いこと」をしていないことにできるかもしれないが、それは学問的に意味がないし、この世界に、絶対的な悪の権化が存在するかのような印象を与えることになる。絶対的な悪の権化は、殲滅しなければならない、となる。それこそ、“ナチス的”ではないか。
いかなる意味でも「善」をなさない、「絶対的な悪」というのは、この世に存在し得ないし、もしそれが生身の人間として実在するとしても、それが誰か見抜くことができるのは神だけだろう。私たちには、他人の本性を見抜くことなどできないし、他人の行動の全てを把握することさえできない。
滅ぼすべき「絶対悪」(=ユダヤ人)を実体視したから、ナチスの行動はどんどん、民族絶滅の方へエスカレートしていったとは考えないのか?歴史上の集団虐殺のほとんどは、それに起因するのではないか?
「絶対悪」という概念を哲学的に掘り下げて考えるのはいいが、実在する人間を「絶対悪」の化身と見なすのは、それがナチスの最高幹部であったとしても危険である。何故なら、その人物を基準に、絶対悪人の属性を特定し、それに当てはまる人間を探したり、自分にはその要素がないと安心することに繋がるからだ。ナチ・プロたちは、「ナチスは少しでも良いことをしたと思うか」、と問いただし、「イエス」と答えた相手を叩きのめすことが正義だと思っている。「ナチス」を、他人を悪魔化し、
ナチスを肯定しようとするネトウヨを封じるためには、こうした強圧的なやり方も仕方ないと言う人もいる。しかし、そんなことを言い出せば、「全体主義の危険を未然に刈り取る」ための言論弾圧も正当化される。本末転倒だ。全ての人に、ナチスについて「正しい語り方をしろ」というのは傲慢であるだけでなく、危険である。ナチスの財政・金融政策等を学んだ人が、ナチスの政策を全体としてどう評価するかは、本人に任せるしかない。それが自由主義社会だ。
これは「統一教会問題」と共通する点である。統一教会のやることに、少しでも肯定的なポイントを指摘したり、解散命令請求に問題があったと述べたりすると、「お前は壷(信者)だな」、と異端審問にかけられる。「ナチス」について肯定的なトーンで語れば、異端審問によって、言論の自由を否定されても仕方ないように、統一教会信者やその“シンパ”は言論の自由の適用対象外扱いされる。
“敵”を悪魔化し、殲滅することが正義だと思い始めたら、自分の方が悪魔になっている、という、九〇年代には当たり前だった議論が、今ではほとんど通じなくなっている。
文:仲正昌樹