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『魏志』倭人伝は『三国志』のなかの一部

邪馬台国が九州にあったとする理由 第1回

「邪馬台国」という名が初めて記された史書、『魏志』倭人伝。
詳細に読み解いていくことで、見えてくる「邪馬台国=九州説」の根拠とは?

邪馬台国を知るうえでかかせない史書
『魏志』倭人伝の内容とは?

 邪馬台国論争の出発点は、『魏志』倭人伝である。どんな議論になろうとも、たえず、『魏志』倭人伝にたちかえり、チェックをしながら議論を進めなければならない。なぜなら歴史上初めて、倭国(日本)に関して、くわしく記載した史書が『魏志』倭人伝であり、そこに「邪馬台国」の名が現れるからである。

 邪馬台国時代の中国は、魏・呉・蜀の3つの国にわかれていた。いわゆる「三国時代」(220~280)である。中国の三国時代の歴史を記した正史には、晋の史官陳寿(ちんじゅ)の撰した『三国志』がある。『魏志』倭人伝は、この『三国志』のなかの一部、古代の日本人(倭人)のことを記した部分のことである。『三国志』は、まず大きく「魏書」「蜀書」「呉書」にわかれる。このうちの「魏書」のなかに、「東夷伝」(東方に住む異民族について記載した部分)があり、そのなかに「倭人」のことが記されている。その部分が『魏志』倭人伝なのである。

 『魏志』倭人伝は、倭国に使(つかい)として行ったと記されている梯儁(ていしゅん)や張政(ちょうせい)などの見聞記や報告、魏の皇帝の詔書をはじめとする外交文書などがもとになっているとみられる。陳寿自身は、日本に来ていない。

 『魏志』倭人伝の内容は、大きく、次の3つにわけられる。

(1)倭の国々のこと 朝鮮半島から、狗邪韓(くやかん)国、対馬(つしま)国、一支(いき)国…などの間の国々を通過し、邪馬台国にいたる道程を記す。また、官職名、戸数なども記す。

(2)倭の風俗 入墨、髪型、衣服、動植物、兵器、葬儀、卜占(ぼくせん)、租税、訴訟、市、倉、尊卑の別、寿命など。

(3)政治と外交 その国は、もと男子を王としていたこと。70~80年前(これは『後漢書』の記録を参考にすれば、160年~189年ごろ)、倭国が乱れ、年を経て、卑弥呼という女王をたてたこと。卑弥呼は、鬼道につかえたこと。卑弥呼は魏の国と外交関係をもったこと。景初3年(238年であるが、実際は239年の誤りとみられる)に、魏の都洛陽に使をつかわしたこと。正始4年(243)にも使をつかわしたこと、卑弥呼の死後、壱与(いよ)(台与・とよ)が王になったこと、などを記す。

 

《邪馬台国が九州にあったとする理由 第2回へつづく》

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安本 美典

やすもと びてん

日本史学者。1934年生まれ。京都大学文学部卒業、産業能率大学助教授を経て、前産業能率大学教授に(2004年退職)。「邪馬台国の会」主宰。文学博士。『季刊邪馬台国』責任編集者。主な著書に『邪馬台国への道』(筑摩書房)、『卑弥呼の謎』(講談社)、『「邪馬台国畿内説」を撃破する!』(宝島社)など多数。


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