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歴史人最新号「戦国軍師の大逆転劇」をピックアップ紹介!

軍配者の仕事と役割

 

現在発売中の歴史人8月号「戦国軍師の大逆転劇」から軍師の仕事と役割について紹介!

軍師とは何か

辞書類によれば、軍師とは大将の配下にあって、戦陣で計略、作戦を考えめぐらす人を意味する。彼らは単に戦場で計略や作戦をめぐらすだけでなく、ときに外交にも携わるなど、多彩な能力を発揮した。しかし、軍師という言葉は近世に生まれたもので、それより以前にはなかった言葉である。実際は、後述する軍配師と称するのが正しいようだ。

戦国時代には、武田氏の軍師・山本勘助、今川氏の軍師・太原雪斎、上杉氏の軍師・宇佐美定行など、著名な軍師が数多く存在した。中には実在を示す一次史料に乏しかった人物もいたが、山本勘助のように多くの一次史料が発見され、注目を集めた例もある。

日本に兵法が伝わったのは、奈良時代にさかのぼる。『日本書紀』には、兵法を駆使したと思しき人々が登場する。留学生として唐に渡った吉備真備(六九五~七七五)は、儒学・天文学・兵学を修め帰国した。兵法に通じた真備は城を築くなど、「軍師第一号」といわれている。真備は、陰陽道にも通じていた。のちに『孫子』『呉子』『六韜三略』などを参考にして、わが国でも多くの兵法書が執筆された。

平安末期以降、戦いが頻発する時代に入り、戦い方は洗練された。同時に兵法も大いに発達し、理論化が進められた。南北朝期から室町期にかけて執筆された『兵法秘術一巻書』『訓閲集』などは、兵法書の代表といえるだろう。

戦国時代は迷信が信じられており、陰陽道や占いなどが重要視されていた。戦国期の兵法は、宿星、雲気、日取、時取、方位などをもとにした軍配術が基本であった。これに弓馬礼法や武家故実が結びつき、軍配兵法が発達したのである。占星術や陰陽道に通じた軍配者は、合戦の日取りを決めた。十二世紀初頭に賀茂家栄が撰した『陰陽雑書』によると、戦いに適した日は己巳以下の十四日であるとされている。ただし、諸書によって合戦に適した日は一定しておらず、各軍配師の独自の理論に基づいていたようである。

戦国大名は、出陣の日の選択をお抱えの軍配者に委ねた。多くは僧侶であることが多く、ときに易者や山伏に任せることもあった。僧侶の場合は、軍師養成学校と称された足利学校の卒業生も少なくなかった。要は、やみくもに出陣の日を定めていたわけではないことだ。

このように合戦に適した日時にこだわった例は、康平三年(一〇六二)八月の前九年の役で確認することができる。源頼義は安部宗任の叔父で僧侶の良照の籠もる小松柵を攻撃しようとしたが、その日は日取りが良くないとの理由で延期した。出陣の日については、足利将軍家が陰陽頭に依頼し吉日を選んだ例がある。

軍師の作法

出陣に際しては、日取りの吉凶を占い出陣日を決定するほか、三献の儀などの作法があった。以下、それらの説明をすることにしよう。

もっとも重要なのが、出陣日の決定である。軍配師は天文学、気象学などの知識をフル活用し、出陣日の吉凶の占いを行い、最適な出陣日を提案した。戦いは天候(雨や風など)にも左右されるので、より慎重が期されたのである。

出陣に際しては、三献の儀が執り行われた。三献の儀とは、「打鮑」「勝栗」「昆布」をそれぞれ口につけ、酒を飲む出陣の儀式である。これは「打って」「勝って」「喜ぶ」という語呂合わせで、縁起が良いとされたからである。ほかに出陣の際に連歌会を催すことも、勝利につながるとされた。

行軍の途中でも、随時、吉凶を占っていたようである。そして、一番首が届けられると、軍神に捧げるのも軍配師の仕事であった。これを「軍神の血祭りに上げる」と称する。そして、戦いに勝ったときには、軍師が主導して「勝鬨」をあげた。

敵の首が持ち込まれると、それが大将の首であるかを確認する必要があった。これが「首実検」である。単に首を確認し、戦功を認定するだけではなく、死者への弔いの意も込められていたという。非常に重要な儀式であった。

以上、軍師の作法について述べてきたが、あくまで一般的なものである。毛利家では出陣に際して、鎧の上帯を切るという独自の作法があった。それらは科学的、合理的とは言えないかもしれないが、当時の人々は強く信じていたのである。いずれにしても、勝敗はそのまま生死如何に関わってくるので、軍師の役割は重要だったのだ。

足利学校は軍師養成機関だったのか

足利学校は儒学を中心にして、諸学を教授し、戦国期には占いや兵学なども教えていた。しかし、戦国期の足利学校は戦乱の影響を受け、十六世紀初頭には厳しい状況に追い込まれた。享禄年間(一五三〇年代)には火災により、建物や重要な書物が焼失している。

戦国大名・北条氏政は、物心両面にわたる援助を足利学校に行い、再興を促した。最盛期には、三千人余の学生を抱えていたという。天文十八年(一五四九)に日本を訪れた宣教師のザビエルは、「日本国中で最大の大学」あるいは「坂東の大学」と称賛したほどだ。

戦国大名の援助があったことから、足利学校では占いや兵学が盛んに講義されるようになる。足利学校の初代の校長は、易学の権威である快元であった。当時の兵学は占いを基本としており、合戦の日取りなどを決定する際に重要視された。『甲陽軍鑑』によると、足利学校で教授される占いは、かなりの高い評価であったという。

純粋な意味で足利学校は、軍師養成学校とは言い難い。ただ、戦国時代には、足利学校出身者の僧侶らが政治ブレーンとして大名に仕えたので、結果的に軍師養成学校のように見なされたようだ。

卒業生は錚々たる面々である。小早川隆景は、足利学校出身の玉仲宗と白鴎玄修の二人を、鍋島直茂も不鉄桂文を招いていた。直江兼続のもとには、足利学校出身の涸轍祖博がいた。徳川家康のブレーンである天海も、足利学校の卒業生だ。

天正十八年(一五九〇)に北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、足利学校も衰退の一途をたどった。足利学校の蔵書の類は、豊臣秀次(秀吉の養子)が持ち帰り、翌年には事実上の閉校となる。しかし、江戸時代以降、足利周辺に入部した領主らによって再興されたのである。

以上、今月の歴史人8月号「戦国軍師の大逆転劇」からピックアップ紹介でした。続きは是非、誌面で御覧ください。お買い求めはこちらから!
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