なぜ私はAVという〝セックスをお金に換える行為〟をしていたのか。今ようやく辿り着いた境地【神野藍】
神野藍「 私 を ほ ど く 」 〜 AV女優「渡辺まお」回顧録 〜連載第36回
早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、注目されている。AV女優「渡辺まお」時代の「私」を、神野藍がしずかにほどきはじめた。「どうか私から目をそらさないでほしい」赤裸々に綴る連載エッセイ「私をほどく」第36回。〝なぜ私はAVの仕事をしていたのか?〟 呪詛のような問いを「私」は解(ほど)くことができるのだろうか。「私」自身を裏切らないために。
【〈作りこまれすぎた潔癖な私〉を裏切る】
『すべての不良は、言葉を欲しがっているんだ、とわかった。』
『チェーンやナイフは、言葉の代わりなのだ。』
(『音楽の海岸』村上龍 p,247)
不思議とこの一節を読んだとき、私の中で一つの疑問がすっと浮かび上がった。それなら、私にとって言葉の代わりは何だったのだろうか、と。
今、私の身体の中に日々溜まっていくどろどろとした得体の知れないものたちは、言葉にして、このように書いていく行為によって消化されていっている。ごくたまに、誰かと大事な話―特に感情的になってしまうような内容のときは、自分は話して伝えるよりも、書いて伝える方が相手にきちんと気持ちが伝えられるのではないかと思ってしまうほど、私にとって書くという行為は、自分の抱えている全ての感情や考え、そして名前が付けられないような何かを表現するのに適していると思っている。きっと人によってはその方法が様々で、話すや描くなどの表現として放出する場合もあれば、運動や買い物などの行動で処理する場合もあるのだろう。
あくまで今の私にとってそうであるだけで、思い返せば昔からそうであったわけではないのだ。確かに人より書いてはいたが、それは自分のためではなく、誰かのためや何かのためにといつも明確な目的があった。現在のような内に秘めた何かを言葉にしていたわけではなくて、おあつらえ向きの求められているものを表現していたに過ぎず、いつのまにか書くものだけでなくて、口から出てくる言葉でさえも私のためのものでなくなってしまった。
あの頃は最悪だった。他人が喜ぶ言葉を私の言葉としてぺらぺらと吐き出していて、自分自身でさえもそれが当たり前だと思っていたのだから。
成長の過程で自分の言葉というものを捨てた私にとって、身体の中に堆積したものたちを外へ出すために必要だったのは、人々が描いていたであろう〈私というシナリオ〉にそぐわない行為全てであった。幼少期から「悪」だと決めつけられてきた不道徳なもの、そしてそれらに加えて、命を失わない程度に自分自身を危険に晒すことができるのならば、喜んで受け入れていた。自らの状況を理解してそのように行動していたわけではないが、きっと無意識にも己の中にある〈作りこまれすぎた潔癖な私〉とどこかバランスをとろうとしていたのだと思う。その延長線上にあったのが、セックスをお金に換える行為であり、最終的に行きついたのがあの仕事だったのだろう。
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