僕の家には犬がいる【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第13回
森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第13回
【時代が変われば常識も変わる】
たとえば、大学で留学生を受け入れるとき、ペット同伴で暮らせる宿舎があるだろうか? こういう例を挙げると、「そこまでする必要はないだろう」と眉を顰める人が多いかもしれない。だが、これと同じことが、かつては人間の幼児、子供などでもあった。「会議に子供を連れてくる必要があるのか」「学問をする人間がどうして育児をするのか」といった疑問を持たれた時代があった。ホームセンタでカートに犬を乗せて商品を見ていたら、近くを歩いていた老人から「わざわざ犬なんか連れてくるなよ」と怒られたことがあった。つい10年ほどまえの日本でのこと。犬用のカートだったので、非常識ではないはずだが、その老人にとっては非常識だったのである。
買い物をするときに駐車した車に子供を残しておくことが、近年問題になっている。同様に、犬を残しておくことも非常識だといわれる時代になるだろう。だから、店の中に犬を入れないことも非常識になるかもしれない。少なくとも、走り回って大騒ぎする人間の子供よりは、犬の方が他人に迷惑をかけないだろう(アレルギィの問題はあるが)。
人前で煙草を吸うことが非常識な時代になった。かつては、電車の中でも店の中でも、どこでも喫煙していた。犬も猫も自由に街中を歩いていたし、人間の子供たちも、保護者の同伴なく、どこへでも遊びにいったものである。そういうことが、今では非常識になりつつある。弱者を守るために社会が変化しているのだ。
ただ、最近少し不思議に感じるのは、同調圧力のような暗黙のルールである。日本のマスコミでよく観察されるのは、「このようなことはやめましょう」という訴えかけだ。やってはいけないことがある。しかし、法律で禁止されているわけではない。違法な行為ならば、「やめましょう」はおかしい。「人を殺すのはやめましょう」「盗むのはやめましょう」とニュースではいわないはずだ。警察が捕まえて、罰せられるからだ。
常識・非常識は、個人の認識の差によって相違する。「迷惑行為」と感じる人もいるし、「べつにそれくらいいいんじゃないの」と思う人もいる。街の声をいくら集めて放映しても意味はない。そもそも多数派か少数派かで決まる問題でもない。本当にいけないことなら、法律を定めて、罰を決めておくのが筋だ。
「こんな人とは友達になりたくない」という言葉が、他者を非難するために用いられるらしい。「友達」や「仲間」が極めて価値の高いもの、人生の主目的のように語られることもしばしば。「やめましょう」と仲間意識を高めて「忖度の結社」を作ろうとしているようにも見える。
僕には、「友達になれる」ことの価値がわからない。犬が一緒なら、べつに友達なんていらないけれどな、と正直思う方である。
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〈無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。〉(第5回「五月が一番夏らしい季節」より)。