カンボジア・ベトナムで体験した「個人主義」と「強かに逞しく生きる力」【西岡正樹】
「生きる力」はどこから生まれるのか?
■体の小さい隻眼の老女と「強かな逞しさ」
翻って日本の現状はどうなのだろうか。何度も言うが、「停滞と混迷を続けている中、我々は自分たちをしっかりと見つめ直す時期に来ているのではないだろうか」と私は思う。
私はベトナム人の友人にも、カンボジア人の友人に送った質問を同じようにしてみた。
「ベトナムの人は、バイクを発車させるのに後ろを確認しないで発進させるのはどうしてなの?」
すると、
「それは私にとって難しい質問です。きっと、ベトナム人は2つの目ではなくもう1つの目で見ているのではないかな」
という冗談とも本気ともいえるような返事が来た。
カンボジア、ベトナムの旅は、誠にもって驚かされる日々の連続なのだが、欧米とは異なる徹底した「個人主義」を目の前にして、私が思うことは、我々日本人がいかに中途半端な行動をしているか、ということである。日本人は「民主主義」という名の「個人主義」を手に入れたのだが、この「個人主義」は自分たちの生きざまを反映していないから、とても脆弱である。一言で表すなら「逞しくない」のだ。(ただ与えられたものは、努力しないと自分のものにはならないってことですかね)
どちらが良いのか、という言い方はここではふさわしくないので考えもしないが、欧米型の「個人主義」(私の勝手な命名)も東南アジア型(南アジアも入るかも)の「個人主義」(私の勝手な命名)も一言で表すなら「逞しい」のである。(旅から得た実感)私は今回の旅を通して、我々日本人が失って久しい「逞しさ」を、東南アジアの「個人主義」の中に見たのだ。言っておくが、私が言う「逞しさ」はマッチョな逞しさではない。どのような状況になっても生きていく力を持つ〔強かな逞しさ〕である。
私は、前述のサパでひとりの老女に逢った。黒モン族の女性だと思われるのだが、体は小さく杖をつき、隻眼であった。光を失った青白い片目、薄汚れた民族衣装に私はたじろいだのだ。(当初、物乞いかと思った)そんなことを思った私が恥ずかしくなるような老女の交渉術。その術中にはまり、私はミサンガを3本買うことになった。「可哀そう」という言葉が頭によぎるような私の「浅はかさ」を、老女は見抜いていたのである。
今の私には、この老女のような逞しさはない。この逞しさは、人間が生きていくために必ず必要なのだ。失ってはいけないものなのだ。欧米型であろうと、東南アジア型であろうと、確かな「個人主義」を表現し続ける人たちには、この「逞しさ」がある。私が今回の旅で確認したことでもある。
文:西岡正樹