感動する対象を教えてもらう人々【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第16回
森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第16回
【自然を愛でようというのは理性】
大昔の人たちのことを考えてみよう。人工物がまだろくにない時代である。自然は、美しさを楽しむような対象ではなかったはずだ。雷や嵐に恐れおののくばかりで、神様の怒りだと解釈されていた。生贄を捧げて、どうか見逃して下さい、とお願いするしかなかった。たしかに、なにもない晴天、のどかな風景には安心感を抱いただろう。でも、美しいと感じてはいなかったはずである。
ピラミッドやギリシャ神殿など、王様が作らせた人工物も、神への畏怖の象徴だった。人々は、大きな人工物を見たことがないから、驚きとともに威圧された。権力者は、大衆を圧倒する力を見せる必要があった。それは美しさではなく、非自然あるいは非現実感だった。この世のものとは思えないほど効果があっただろう。
しかし、しだいに人工物は神が造ったものではない、と人々は理解する。その頃には、経済的な力を示すアイテムとなり、高価であることが指標となった。珍しいもの、手間がかかるものが作られ、見る者はそれを初めて「美しい」と感じるようになった。ただ、これは、上から与えられた価値観であり、教えられたものである。赤子や子供にはわからない。
珍しいもの、滅多に見られないものに価値を見出す審美眼が広まった。自然の整った風景を美しいと最初に感じたのは、支配層、富裕層であり、また画家は彼らに依頼されて、それを絵に描いた。「絵画のような美しさ」は、このようにして生まれたのだろう。
思いどおりのもの、つまり人が作ったものが美しい。それが反転して自然を形容する言葉として用いられるようになった。特に、自然自体を神々として認識していた日本では、自然を愛でる文化が古くから存在した。さらには、朽ち行くものに対する美までも見出した。いうまでもなく、朽ちることが自然だったからだ。
このように考えてみると、自然を美しいと感じるのは、人間の生まれながらの本能ではなく、明らかに文化的なもの、すなわち理性による評価であることがわかる。理性とは、つまり理屈であり、理由があって判定されるもの、計算されるものだ。珍しく一時のものに美を見出す。雷や嵐の風景なども、絵画として描かれる。そして、人間はいつも新たな美を探し続けている。
「自然が美しいなんて、常識じゃん」という人は、なにも考えず、みんなが飲んでいるなら、なんでも飲み込んでしまう、ちょっと危ない人かもしれない。お気をつけて……。
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森博嗣先生が自身の日常を観察し、思索しつづけた極上のエッセィ。「書くこと・作ること・生きること」の本質を綴り、不可解な時代を見極める智恵を指南。他者と競わず戦わず、孤独と自由を楽しむヒントに溢れた書です。
〈無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。〉(第5回「五月が一番夏らしい季節」より)。