次の大迫勇也になるのは誰か。
五輪サッカー代表から読む「経験」論
「現役目線」――サッカー選手、岩政大樹が書き下ろす、サッカーの常識への挑戦
「経験したこと」を生かすために
オリンピックなどの大きな経験を得る機会のなかった僕が大事にしてきたのは小さな経験でした。それは毎日の練習でいくつもできる経験です。
鹿島に入団して間もない頃、小笠原満男選手や本山雅志選手、野沢拓也選手といったこれまで経験したことのなかった魔法のようなプレーをする選手たちと対峙しながら、僕はいつも悩んでいました。練習後のロッカールームやシャワールームで一人、何十分も考え込んでいたので、先輩方が心配して「お前大丈夫か?」と声をかけてくださるほどでした。
このとき頭を巡っていたのは、この選手たちのレベルに追い付くには何をすべきか、ということ。そして、そのために自分の守備における「ビジョン」を確立していくことを急いでいました。
身体能力も技術も到底及ばない僕は、自分のポジショニングと味方の選手の動かし方で勝負しようと考えていました。どこに立つべきか、誰をどこに立たせれば自分が(チームが)守れるか。やられる経験を繰り返しながら、自分なりの「ビジョン」を書き換え、そして練習でまたみんなに挑む毎日を繰り返しました。
僕のこうした作業は、小さな経験の積み重ねで、すぐに何かを大きく変えてくれるものではありませんでした。しかし、僕の「ビジョン」作りは確実に、サッカー選手として生きていく拠り所となりました。
先日、「経験」について書かれた本を読んでいたら、そのこととつながる記述を見つけました。
「経験とは、断片的に見ていたものを複合的に見られるようになること」
なるほど、と思いました。
若い頃の僕は、ビジョン作りのために自分のポジショニング、味方のポジショニング、そして対応の仕方など、起こった一つの場面をあらゆる角度から捉えるようにしていました。それが歳を重ねる中で、同時に全体を捉えて、全体を一気に把握することができるようになっていました。全体をぱっと見て、そこから違和感のあるところを詰めていくようになっていったのです。
僕の中で作り上げたプレーのビジョンは、確実に経験として生かされ、そして僕の「経験」を積み重ねてきたのだと思いました。
経験とは確かに選手にとって必要なものだと思います。ただ、経験すれば何かを得られるというものでもありません。「経験したもの」では差は生まれないのです。
大事なことは「経験したことをどう生かすか」。そのためには、正解かどうかは置いておいて、一つの出来事をあらゆる角度から考えてみることが大切だと思います。そして、失敗も繰り返しながら、その「あらゆる角度」がどこか自分の中で一つに繋がる感覚を持てるようになったとき、花開いていくものなのだと思います。