日本は「憲法」を必要としない国である!
インタビュー/『日本人に「憲法」は要らない』著者・西村幸祐
Q1 まず、今、このテーマで本書『日本人に「憲法」は要らない』を執筆しようと思った動機をお聞かせください。
西村:去年(2015年)の安保法案審議のときに、「集団的自衛権は憲法違反だ」とか「立憲主義に反する」とか、憲法改正以前の段階でそんな話がいっぱい出てきました。だいぶ以前から感じていたことでもあるんですが、さすがにこのときは「これはおかしい。なにか根本的なところを間違えているな」と思った。そのうえ、そんな間違った議論がそのままテレビや新聞で大きく報道されている。もう聞くに堪えない状況でした。
「真実」が覆い隠されて、違った土俵で、上滑りの議論だけがどんどん進んでいくことになってしまった。これは本当に大きな問題だと思いました。とにかく、何かあると「憲法に違反してるか、否か」という話ばかりが報道されている。こんな状況ではますます日本人はバカになってしまうと思ったんです。
三島由紀夫は、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決(1970年)した際に、憲法改正を訴えていました。あれから46年、日本人はいったい何をやっていたのか。そういうことを改めて考えたときに、では「憲法っていったい何だろう」と考えざるを得なくなったわけです。
その根本的なところをはじめから考えて、それを読者の人たちにわかりやすく提示すれば、今のような誤解に基づく議論の組み立てとか、そういうものはなくなるのではないか。そういう気がしたんです。それがこの本を書こうと思ったいちばんの動機です。
Q2 「日本国憲法」が70年近く一度も改訂されなかったのは驚きというより異常に感じますが、そうなったいちばんの原因は何だと思われますか?
西村:かつて文芸評論家の江藤淳が書いた『一九四六憲法――その拘束』という本のタイトルにあるように、「拘束力」ですよね。やはり、福田恆存さんがいみじくも「当用憲法」と言ったけれども、今の憲法そのものにはそれだけの拘束力があるわけです。
それは占領基本法としての拘束力であり、日本を永久占領しておきたいというアメリカの国家意思がこの憲法にそのまま反映されているわけですからね。なかなかそれを撥ねつけることはできない。
それと、日本人がそういった「ぬるま湯」のような環境に漫然と浸かっている状態を良しとしてきた。それがいわゆる「戦後」という時代区分のいちばんの特徴なんです。
普通はどこの国でも、戦争終結後5年くらいで「戦後」は終わる。どんなに長くても10年も経てば「戦後」は終わるのですが、日本の場合は違った。去年で「戦後70年」と言われているわけですから。
昭和30年代の初期に日本の通産官僚が<もはや「戦後」ではない>と言っています。それは、「経済的に自立できた」という意味で言ったのだけれども、そのときは日本のジャーナリズムも「もはや戦後ではない」ということを盛んに言って、これは流行語にまでなった。
それなのに、いつからかそれが全部上書きされちゃって、戦後30年、40年、50年、60年……って、ずぅ〜と来ているわけです。
そんなことになったのは、「いつまでも敗戦国の占領下における状態でいい。そのほうが面倒臭くなくていい」という、奴隷根性みたいなものが日本人の身についてしまった。言い換えればそういう状態に慣らされてしまったからではないでしょうか。
だから、「戦後〇年」とずっと言われ続けているということこそが、「日本国憲法」が一度も改正されなかった理由とも言えるでしょう。
Q3 では、「日本国憲法」を、オリジナルの「日本の憲法」に変えるチャンスはなかったのでしょうか?
西村:何回かあるんですね。いちばん大きなチャンスは占領が解けた昭和27(1952)年の4月28日ですね(この日、サンフランシスコ平和条約が発効された)。日本が独立をし、主権を回復したこのときです。このときに占領憲法を破棄すればよかったんです。破棄して、昭和21(1946)年にやったように、大日本帝国憲法を改正条項で改正すればよかった。破棄しちゃえば、今の憲法にある96条なんて関係ないですから。あの時点でそれができていれば、戦後のあの混乱というのはなかったと思います。
その次のチャンスは、昭和44(1969)年から45年にかけての、いわゆる「70年安保」のときですね。佐藤栄作内閣のもと、日米安保条約の自動延長が決まるかどうかということで大騒ぎになりました。「70年安保」が叫ばれ、それが反日左翼勢力の大きな闘争目標になっていた。世界的にも60年代末期から、一種の高度資本主義社会のなかでの反乱ということで学生運動が起こった。マルキストたちを非常に勇気づけた出来事が世界各地で起こったのです。
そういう風潮のときが、実は憲法改正のチャンスだったんです。沖縄返還が日米両政府の間で着々と進められて、昭和47(1972)年、ついに沖縄返還が決まったのですが、そのときの「佐藤–ニクソン会談」で、実はニクソン大統領は日本の独立を促していたんですね。
ニクソンは、この70年安保の自動延長の切れ目と同時に日本に核武装を奨め、それで沖縄を完全返還するという提案を日本にしたのです。でも、佐藤首相は日本の世論やメディア、左翼勢力の反発を恐れて、この提案を断った。そして「核抜き本土なみ」という言葉をこしらえて、沖縄返還を行ったんですね。
当然、ニクソンは激怒します。また、大統領補佐官のキッシンジャーは、その経過を見て「日本はパートナーとしてはちょっと信用出来ない」と判断したという話もあるくらいです。
要するに、アメリカがアジア支配をどうやっていくかというとき、日本とアメリカの太平洋における「G2」のようなものは当然構想されるわけですよ。大西洋におけるイギリスと同じ位置を日本が占めるようになれば、アメリカの世界戦略にとって非常に有利な状況になるんです。
でも、この会談で日本にはその気概がないということがはっきりわかった。
それでキッシンジャーは、毛沢東の元へ飛んで行ったわけです。それはもちろん、ソ連を抑えるための地政学的な外交手段だったわけです。だからこの安保条約自動延長のときが憲法改正の2度目のチャンスだったんです。
憲法改正をすべきときにしなかった。それを三島由紀夫は全部見抜いていてあの行動を起こしたと僕は思っています。
Q4 2回も大チャンスがあったのにやらなかったというのは、先ほどおっしゃった「ぬるま湯」というところに繋がりそうです。当時の自民党がだらしなかったんですかね。
西村:そこまで突き放しちゃうとちょっと可哀相だから、肯定的な面をさぐってみると、むしろ「アメリカを利用して、したたかに生きてやろう」という日本側の策略もあったのではないかという評価もできると思います。佐藤栄作については当然そういうことになるだろうし、その前の首相の池田勇人もそうだったと思いますよ。なにせ、二人とも吉田茂学校の門下生ですからね。
軍門にくだって、占領状態を続けさせながら、実はアメリカの衣を利用する。実際に経済的にはそういう方向にいったわけですからね。しかしそれがよかったかどうかというのはわからない。というのは、それに対するひとつの結論が、すでに1980年代に出ているわけですからね。
80年代はヨーロッパ全土が不況になった。アメリカも同じく不況、好況なのは日本だけ、一人勝ち状態だったんです。そこで当然のように日本バッシングが出てきた。その最初の表れが1985年のプラザ合意でした。だから、プラザ合意のころまでは日本が世界を席捲していたわけで、ほんとに当時の日本は「G2」だったわけです。
平成元(1989)年に、石原慎太郎とSONYの盛田昭夫が『NOと言える日本』という対談本を出して翌年にかけて大ベストセラーになりました。「NOと言える日本」というのが当時の日本の、実は明確な意思表示だったんですね。
この間その本を読み直してすごく面白いと思ったのは、当時から「G2」という言葉が使われていたことです。使われてはいたんだけど、それは今の「G2」じゃない。当時は日本とアメリカを「G2」と言っていた。だからその頃にも3回目のチャンスがありました。「戦後体制」を脱却出来るチャンスがね。
憲法改正のチャンスはこれまでに少なくとも3回はあった。3回目が見送られた後は、ご存知のように今に続く「失われた20年」になってしまった。だから、それに対する日本のパワーの逆バネとして、平成24年(2012)12月の第二次安倍政権の誕生は歴史的必然と言ってもいいでしょう。
Q5 「日本国憲法」の文章がおかしいという議論があります。これについてはどう思われますか?
西村:まず、なにより翻訳がおかしい。ただ、原文の英語の文章もたいした英語ではありません。なぜなら、この本にも書きましたが憲法を書くような人でない、GHQ民生局の人間がなかば勝手に書いていたんだから。どう見ても格式のあるまともな英語ではありません。
好意的に解釈すれば、その英文の憲法を翻訳した人は「変な憲法だと思わせるために、わざとおかしな日本語に翻訳したのではないか」、そんなふうに考えたくなるくらいにひどい文章ですね。こんな恥ずかしいものは早く別のものに替えて欲しいと思わせるために、あんな日本語にしたのではないかと、好意的に考えれば、そんな気もしますね。
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