こんなに弱くてゴメンナサイ…五稜郭(北海道函館市)の謎
“歴史芸人”長谷川ヨシテルが太鼓判を押す!?「最弱の城」
その攻城戦の結果は・・・、何とわずか1週間で落城となってしまいました。美しさと実用性を兼ね備えたと思われた五稜郭が落ちてしまったのはナゼか。
それは、箱館奉行所にありました。
五稜郭はヨーロッパ式の築城術を取り入れた「稜堡式」のお城で、大砲の標的とならないように土塁を低く設けたことは先ほど触れました。それにも関わらず、奉行所の太鼓櫓の高さは何と、約16.5m! つまり、新政府軍の砲撃の絶好の標的となってしまったのです。
とは言え、五稜郭は海から約3km離れた、大砲が届かない場所にわざわざ築いたお城です。海からの砲撃は何も問題ないはずでした。
しかし、新政府軍の軍艦「甲鉄(こうてつ)」の大砲の飛距離は、何と4km以上! きちんと射程圏内に入ってしまいっていたのです。
新政府軍の狙いはもちろん、函館湾から丸見えだった函館奉行所でした。城内を隠す役割があった「見隠塁」など全く意味をなしていなかったのです。
そして、甲鉄からの砲撃が奉行所に直撃して、司令官の1人が重傷を負うなど、五稜郭は大ダメージを受けてしまいました。城兵は慌てて標的となっている太鼓櫓を切り落としたそうですが、時すでに遅し…。新政府軍の大砲の標準はバッチリ奉行所に定められてしまっていたのです。あとはただ撃つだけ。
しかし、旧幕府軍もこのまま黙っているわけではありません。五稜郭からも反撃!をしたのですが、五稜郭の大砲は飛距離不足…。旧式だったため、新政府軍にはほとんど届かなかったのです。
もちろん接近戦で効果を発揮する「はね出し」や「横矢掛」は意味を成さず、砲撃を機に城兵からは脱走兵が相次いで、五稜郭は落城してしまいました。
また、五稜郭は築城計画の段階で既に大きな問題がありました。このお城を設計したのは武田斐三郎(たけだあやさぶろう)という人物なのですが、このお方はお城を縄張りする兵学者ではなく、単にオランダ語が読める学者さんだったそうです。
西洋の書物にある築城術を翻訳して、見様見真似で造り上げたのが五稜郭でした。さらに、その五稜郭のデザインとなった「稜堡式」の築城術がヨーロッパで流行して効果を発揮したのは、幕末からおよそ300年前のことでした。軍艦「甲鉄」に搭載された最新の大砲にとって、五稜郭は時代遅れのお城だったのです。
以上のように「砲撃に強い」はずの五稜郭は、実は「砲撃に弱い」という『最弱の城』の1つだったのです。
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