〝不遇や障害〟を生き抜く価値に変えた戦国武将・山中鹿介 後世に評価され勝海舟に愛された理由【大竹稽】
障害があるままに自由になる 第3回 〜山中鹿介の障害〜
東大理三に入学するも現代医学に疑問に抱き退学、文転し再び東大に入る。東大大学院博士課程退学後はフランス思想を研究しながら、禅の実践を始め、現在「こども禅大学」を主宰する異色の哲学者・大竹稽氏。迷い、紆余曲折しながら生きることを全肯定する氏は、「障害」というテーマを哲学的に考察している。社会の趨勢を知る軸ともなる特別寄稿。第3回。
戦国武将好きサークルでは、名刺はほとんど役に立ちません。最大の自己紹介は「私の推しの武将」に尽きるでしょう。いやしくも戦国武将好きを公にしている人間たちは、「誰を推すか?」から交流が始まります。
ここで教科書に登場する武将を推すことは、かなりスリリング。ハードルが劇的に高くなります。「織田信長が推しです!」「それはまた、なぜですか?」ここで教科書に書いてある通り一遍のことなど述べようなら「ああ、そのレベル」と無言のお返しが来てしまうかもしれません。
さて、知名度はそこそこ(興味がない人にとっては全く知られていないレベル。しかし大ファンがいるという意味での「そこそこ」)の武将の一人として挙げられるのが、山中鹿介。独断を許してください。
山中鹿介の名で親しまれていますが、山中幸盛が正式名称。中国地方で毛利氏と争った戦国大名、尼子氏に使えた一武将です。尼子の殿様は、後世の評価によれば、暗愚。いっぽう、鹿介は子どもの頃から麒麟児として認められるほどの、武芸教養に秀でた武将(しかも美丈夫!)だったようで、他の拠点がどんどん毛利軍によって攻略されていくなか、鹿介の陣営だけは勝ち続けたといいます。最終的には、尼子氏の本拠地である月山富田城は兵糧が尽きて降伏しますが、その後も、鹿介は尼子氏再生のために全力を尽くします。しかし、その努力もむなしく、三度目の失敗のときに謀殺されてしまったようです。
さて、ここで誰もが持ちうる疑問が、これ。
「なぜ、そんな殿様のために命をかけたの? 大物(例えば秀吉や光秀や信長)に仕える事もできただろうに」
何度も主君を変え戦国時代を生き抜いた藤堂高虎とは、真反対の生き様です。
勝海舟の随筆『氷川清話』に山中鹿介のことが次のように述懐されています。
「いわく、自分の気に入る歴史の武将はまったくいない。強いて挙げれば、山中鹿介と大石良雄である。鹿介は、凡庸な主君のために大望は果たせなかったが、それでも挫けず、倒れるまで戦った」
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